モノクロファクト

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 手紙から祖母の柔らかな声が聞こえたような気がした。優しい人柄が表れた手紙。幼い頃、祖父母宅に預けられた時、知らない人が家に来たら彼女の陰によく隠れていた。その時「瑛太は知らない人には臆病なのねぇ」と優しく、僕の頭を撫でてくれた。彼女の掌はふくふくとした肉厚で、暖かい手をしていた。臆病な僕は、その掌に安心と勇気を貰っていた。彼女に撫でられると、知らない人にも勇気を出して挨拶をする事ができた。 「この手紙はじいちゃんに向けてじゃないの?」 祖父は首を振った。 「ばあさんには、出会う前に婚約者が居て、その人と結婚する予定だった。でも、相手側の理由で縁談は白紙になり、わしとの話が上がった。ばあさんは相手の男が本当はずっと好きだったのかもしれんなぁ。初めてばあさんに会ったのは二十歳の時だ。だから、その手紙は元婚約者だった男性に向けた手紙だ」 「じゃあ、この写真に写ってるのが、その元婚約者?」 僕はモノクロ写真の男を指差した。 「そう、だろうな」  祖父は苦々しく頷いた。  祖母が亡くなってから、祖父は側から見ても明らかに意気消沈していた。二人は孫の僕から見てもお互いに寄り添い合い、支え合っている穏やかな夫婦だった。二人が手を繋いでいる所を見ても、口喧嘩をしている所は一回も見た事がなかった。そんな二人の間にこんな秘密が隠れていたなんて思いもよらなかった。 「何かの間違いじゃないの? ばあちゃんとじいちゃん、すごく仲良かったよね?」  自分が見てきた風景と目の前に差し出された写真と手紙にギャップがありすぎて、思わず否定の言葉が出てしまった。 「わしもそう思ってたんだがなぁ。手紙の内容はどう考えても、写真の男に宛てたものなんだよ。初めて会った年齢は違うし、写真の帽子の男はわしじゃない」 そう言って、祖父は項垂れた。苦々しい顔で頬をかいて、僕を見て力無く笑った。 「…そうなんだ。で、僕だけ呼んだって事は、話はそれだけじゃないんだよね」 「そうだ。瑛太に頼み事がある」 顔を上げた祖父は、僕の瞳の奥を見つめた。 「お前、小さい頃、わしの書斎を覗いた事があっただろう?」 その言葉にドキッとした。昨日と同じ、衝撃とパニックを併せ持った感情が浮かんだ。幼い頃、祖父が一瞬にして姿を消してしまった時を思い出した。まさか、それを彼に気づかれているとは思いもよらなかった。 「え?」 口から出た声はひっくり返った。知らないフリは難しそうだ。 「とぼけても無駄だぞ。あの時は酒を飲んでいたから、油断していた。この時代に帰って来て、扉の向こうで息を潜めてわしを見ているお前に気づいた」 この時代に戻って来た?その言葉に耳を疑う。 「…じいちゃん、どういう事?」 「そうだな、タイムスリップ、と言えば分かりやすいか?」 「タイムスリップ?」  彼の言葉を反芻し、自分が非現実的な事を口にしている、と思った。でも、その一方で確実に消えた事実に対しての答えとして納得しつつあった。彼は確かに、消えた、のだ。 「そうだ、タイムスリップ。わしの書斎の防湿庫の1番上にあるフィルムカメラとそれで撮った写真に触れると、写真を撮った瞬間に行くことが出来る」  簡単には信じられない内容だった。しかし、病床の祖父がボケてしまったと言うには詳細で、事実に基づく説明。  僕の表情を読み取って、祖父は穏やかな表情で笑った。その笑顔は僕がよく知っているものだった。相手を安心させるための、朗らかさを含んだ笑み。 「瑛太、突然こんな事を言ってすまん。でも、お前しかこの事実を信じてくれる人がいないと思った。死ぬ前にどうしても、ばあさんが好きだった男の名前を調べて来て欲しい。そうでもしないと…」 「そうでもしないと、わしは死ぬに死に切れない」 祖父は切羽詰まった声でそう言って、頭を深く下げた。 「じいちゃん、やめてよ。頭、あげて」 彼は、深いため息をついた。 「情けない事にこの手紙と写真をわしは入院する前に見つけていた。ばあさんの三回忌が終わって、着物の箪笥を整理していた時に、間にあったのを見つけてな。本当は、自分で写真に触れて事実を確認しようと思った。写真の時代に行って、ばあさんに会って話を聞けば良かったんだ。それで、全ては解決するはずだったが…」 「…怖くて、できなかった。ばあさんが元婚約者の男の事を想って死んでいった、と思うと手が震えて、カメラなんて、とてもじゃないが触ることができなかった。真実を知るのが怖かったんだ」  祖父の想いが僕には痛いほど分かった。  今、目の前で深く頭を下げている彼は、昨日の僕だ。事実を知るのが怖くて記銘された離婚届も、外された妻の結婚指輪にも、触れられない自分。携帯で連絡をして話を聞く事も怖くて出来なかった。何より結婚記念日に家を出て行ってしまった事が、事実として明らかだったからだ。言わずもがなの出来事に立ちすくんでいる。  僕は自分を鼓舞するように、両手を握った。冷や汗が手の中で指先を湿らせた。 「…いいよ」 返事を聞いて、祖父はゆっくりと顔を上げた。 「行ってくれるか?」 「…僕に出来るかどうか分からないけど…、じいちゃんの代わりにその写真の男の人が誰かを調べて来たらいいんだよね?」 「ありがとう、瑛太。恩に着る」 「…ちゃんと帰って来られる?」  僕の心配が祖父に伝わったのか、祖父は緩んだようにふっと笑った。その後、落ち着いた口調でタイムスリップの注意点を僕に説明した。
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