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その日も、気怠い夜だった。
時刻はもう二時をまわり、夜の闇はより一層深みを増していく。
男は、まとわりつくように吹く春の風を感じつつ、夜の世界をひとり歩いていた。
酒を飲んだせいか、もしくは湿度が高いのか、春の夜気は少し粘りつくようだった。
夜空にぼんやり浮かぶ月と、淑やかに光を放つ星。目の前には、ぽつぽつと間隔を空けながら並ぶ街灯。
暗闇をわずかに照らすそれらの光が、夜をより深いものに変えている気がした。
夜には静謐な空気がよく似合う。
先ほどまで酒を飲んでいた駅前は、タクシーのエンジン音とネオンの光、酔った人間の愚痴やら泣き言やらにあふれていて、騒がしかった。
騒がしさは夜を遠ざける。皆、夜は越すものだと考えている。明日が来るまでのわずかな闇。光を迎えるための闇。
ひと月前までは自分もそうだったなと男は思う。
そうしたしがらみから逃れられたと考えればいいのか、ただ逃避しただけなのか。男はそれが分からなかった。
まあ、いいだろう。
少しほくそ笑みながら、男は夜道を歩く。
過去との決別の夜。ロマンがあって結構ではないか。
マンションの窓に灯る光は少なかった。
ほとんどの住人が眠っているのだろう。男は鍵を取り出し、エントランスに続く自動ドアのロックを外した。
集合ポストに入れっぱなしだった広告を取り出し、エレベーターを呼ぼうと、ボタンに指を伸ばした時だった。階表示のランプが灯り、エレベーターが下降してきた。
こんな時間に出かけるのか?
もしかすると、面倒事に巻き込まれるかもしれない。階段で上へ行こうか、とも考えたが、体は動かない。気怠さが、体を縛り付けているようだった。
エレベーターの扉が、ゆっくりと開いた。
それと同時に漏れ出してきた鼻歌。
ビートルズのイエローサブマリンだった。
「こんな時間に君みたいな女の子が出歩くってのは、どうかと思うんだが」
エントランスに置かれている大理石の椅子に並んで腰掛けながら、エレベーターから降りてきた少女に男が言った。諭すような言葉だが、声から感じるのは少女の夜遊びに対する憤りといったものではなく、何故こんな夜に出歩くのかという興味だった。
「おじさんこそ、どうしてこんな夜中に? 今日は月曜日ですよ? 明日もお仕事があるんじゃないですか?」
少女の声は、少し楽し気だった。知らない男とこうして肩を並べて座っているという異質さに対しても、特に警戒している様子はない。
「僕はいいんだよ。しばらくは休業だからね」
「お仕事が?」
「ああ」
「なにか、悪いことをしたんじゃないですか?」
「どうしてそう思う?」
「平日のこんな時間にお酒を飲んで帰ってくる不良中年だからってのはどうでしょう」
「悪くないね」
少女と男は互いに笑い合う。男は、心と体を支配していた気怠さが、少しずつ解けていくのを感じていた。どれだけ酒を飲んでも、どれだけ好きな音楽を聴いても消えることがなかったものが、こんな些細なことで消えていく。
窓の外をトラックが走っている。重い駆動音がエントランスの窓を少し揺らした。
少女は、通り過ぎていくトラックを見つめていた。
この時間は、外を走る車といえば、救急車やらトラックばかりだ。
少女が、静かに鼻歌をうたっていた。曲はやはり、イエローサブマリン。
「ビートルズが好きなのかい?」
「え?」
「エレベーターに乗ってる時も、そうやって歌っていたよね? ビートルズのイエローサブマリンを」
少女は少し恥ずかしそうに笑った。
「そこまでビートルズに詳しいってわけじゃないんです。お父さんがビートルズ好きで、子どもの頃、特にこの歌をよく聞かせてくれたんです。歌詞が英語だから歌えはしないんですけど、メロディをなぞるくらいならって感じで」
「思い出の曲ってことかな」
「そうですね。時々口ずさんじゃいます」
少女の言葉には少し悲哀が混じっているように思えた。
「おじさんは、本当に不良さんなんですか?」
少女が男に問う。
「なんだか、悪い人って感じがしません」
「悪人ほど、そうとは見えないものだよ」
「どんなことを、なんて訊くのは失礼ですよね。今日会ったばかりで」
「別に気にしないよ。そうだな、うん。僕はね、裏切ったんだ。それが僕のした悪いこと」
「裏切った?」
男は短く息を吐き、少し笑った。
「僕は僕自身を裏切ったんだ」
少女は何も言わない。続きを待っているのか、もしくは、男の言葉の意味をうまく理解できないのかもしれない。
「僕は挿絵画家をやってたんだ。絵本のね」
「素敵です」
「ありがとう。元々は画家兼挿絵画家だったんだけどね。知り合いに頼まれて描いた挿絵がそれなりに評価されて、それからは挿絵の方に力をいれるようになったんだ」
男は、自分が描いてきた絵を思い出していた。青い空、優しくほほ笑む老人、泥だらけの少年、可憐な少女。それから、苦い記憶もよみがえる。
「画家、というより、芸術にたずさわる人間は繋がりってのに悩まされるものでね。勿論、それがいい影響を与えてくれることもあるけど、いいことばかりじゃない」
救急車のサイレンが近づき、すぐに遠のいていく。尾を引くように、その音はしばらく響いた。
「プライドの高い画家が、よく言っていたんだ。僕はジャリ、つまり子供に養ってもらってる作家だとね。別に気にはしなかった。僕は絵本を軽くみたことはないし、仕事に誇りももっていたから」
それでも、男の心のどこかにあったのだ。挿絵ではなく、自らの絵で勝負したい、画家として活動したいという思いが。
「ある時、その男を中心とした集まりで、僕はそいつを殴ってしまった」
「馬鹿にされたからですか?」
「ああ。だけど、もっと情けない理由だってことに後で気付いた」
「情けない理由?」
「その集まりはね、その男の絵が賞をとって、それを祝おうっていう会だったんだ。今までは何を言われても平気だった。僕には誇りがあったからね。だけど、それは誤魔化しだった」
なぜ、その時だけ許せなかったのか。簡単なことだった。
「僕は、嫉妬してたんだ。そいつが画家として名をあげたことに」
「でも、人間ならだれだってそういうことを思うんじゃないですか? 仕方ないですよ」
「そうかもしれない。だけど、僕はそいつに手をあげてしまった。暴力をふるってしまった。それは許されないことだし、なによりひどい裏切りだよ。挿絵画家としての僕自身に対するね」
あの時から、男の中にある気力のようなものが抜け出てしまった。毎日が気怠さに支配されていて、酒を飲んでは眠るというのを繰り返していた。
「情けない話だよ」
少女はどんな言葉をかけていいのか分からないといった具合で、しばらく黙っていた。
エントランスの壁掛け時計が規則正しく時を刻んでいく。
時刻はもう四時近かった。男は空気を重くしてしまったことを反省していた。そろそろ、部屋に帰るよ。と言いだそうとした時だった。
「私……」
少女が、口を開いた。
「私、今日引っ越すんです」
「引っ越す?」
「父と母が離婚したんです。それで、私は母について行って、鹿児島の方へ引っ越すことになって」
少し気恥ずかしそうに、少女は笑う。
「私、人と話すのが得意じゃないんです。だから、あんまり友達もいないし、この街に思い出らしい思い出もなくて。でも今日でこの街ともお別れなんだなって思ったら、なんだか眠れなくて。ベランダに出て空を眺めてたんですけど、ちょっと下に降りてみようかなって。おかしいですよね、なんだか終わりだと思うと積極的になれて。そしたら……」
「僕がいた」
少女がうなずく。
「勿体ないなって。ちゃんと人と話せるじゃないかって」
そう言うと、わずかに間を置き、遠慮がちに少女は言った。
「あの、こんなこと頼むのは失礼かもしれませんけど、絵を描いてくれませんか?」
「絵を?」
「プロの方にこんなこと頼むのは、失礼だとは思うんですけど。でも、おじさんの絵はきっと素敵だから」
頭が妙にさえていた。酒はもう抜けたらしい。やけにアルコールの抜けが早いなと男は思う。
「おじさんは自分のしたことを裏切りだっていいました。確かにそうかもしれません。暴力はよくない。それは間違いないと思います。だけど私は、嫉妬が一切ないとは言わないけど、怒った一番の理由は、好きで、誇りを持ってる挿絵の仕事を馬鹿にされたからだと思います。今日会ったばかりで知ったようなことをと思われちゃうかもですけど」
不思議な気分だった。それと同時に、情けなかった。自分は、誰かにこう言ってほしかったのだ。なんてずるい男なのだと、男は自分を笑う。だが、少女のまっすぐさは、忘れていた純粋な熱意を取り戻させてくれた。
少しずつ、やりなおしていきたい。今すぐには無理でも、少しずつ。
「ありがとう。なんだか、救われた気がするよ。でも、ごめん。僕は絵の道具を全部売ってしまったんだ」
少女は、「そうですか」と残念そうな顔をした。
「だけど、ペンと紙があれば絵は描ける。引っ越しを始めるのは、何時くらいだい?」
「七時です」
「分かった。部屋の番号を教えてくれるかな? 必ずそれまでに描きあげるから。完成したら、ポストにいれておくよ。いきなり僕が手渡ししたら、親御さんに驚かれるからね」
「ありがとうございます」
少女は、嬉しそうに笑った。
少女と別れ、男は部屋に戻った。
すぐに机に向かい、手元に残っていた画用紙に鉛筆を走らせる。が、ふと手を止め、キッチンの戸棚を開ける。
そこには、コースターがひとつ置かれていた。バーでもらったものをここにしまっておいたのだ。
男はそのコースターの裏に絵を描いた。
エントランスに座る少女。その少女が、窓の外を見つめている。エントランスの窓の外には、トラックの代わりに潜水艦が描かれている。その潜水艦に、色鉛筆で色を塗る。勿論、イエローだ。
イエローサブマリンとそれを見つめる少女の絵。
そして、コースターの表面には、こう書く。「What a Wonderful World」この素晴らしき世界。少女の未来が素晴らしいものであるようにという願掛けのようなものだった。
描きあがった絵を集合ポストに入れ、部屋に戻ると、疲れが一気にあふれ出て、男はベッドに倒れこんだ。
男が目を覚ましたのは、夕方の五時すぎだった。
もうろうとする頭を押さえながら、水を飲み、椅子に腰掛ける。ふと電話に目をやると、留守電のランプが点灯していた。
男は留守電のボタンをプッシュする。
どうやら、電話をしてきたのはマンションの管理人のようだった。
『昼前に訪ねたんですけど、留守だったみたいなので。ポストに預かった手紙をいれてあるんで、もしまだチェックしてないなら、受け取ってください。それでは』
男はエレベーターで下に降り、ポストを開けた。
手紙は少女からのものだった。
切り取ったノートのページに書かれた短いお礼の手紙。
「素敵な絵をありがとうございました。おじさんの未来もよきものでありますように」
男は短い手紙を何度も読み返した。
部屋に戻り、電話を掛ける。絵の道具を売った店にだ。
道具を買い戻すために、電話したのだ。
少しずつ、やり直していこう。
男は、もう気怠さを感じなかった。
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