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待って。そんなはずない。
先月の給料日には60万円以上あったはず。
私と彼、それぞれ10万ずつ貯めていく約束。その口座から家賃と水道光熱費が引き落とされている。合わせても約10万、つまり二歩進んで一歩下がるようにお金は貯まっていた。
それがあっという間になくなるなんて……!
ATMコーナーを出て、スマホを取り出す。通信アプリから悟志に発信した、何度コールしても出ない。
次に電話番号に発信してみる、こちらは「電源を切っておられるか……」と言うメッセージが流れる。
そんな。先ほどの電話でも言ってた、繋がらなくなったって……!
訳も判らずフラフラしたまま、社に戻る。
どうやら、私の様子がおかしかったらしい。
「どうしたの? 大丈夫?」
口々に心配される。
「あはは、何故かお金がなかったです、そりゃ引き落としされませんよ」
ええ、と驚く皆の声、私もびっくりだわ。
「大丈夫?」
今度のそれは、私の体調の心配でないことは判る。
「はは……とりあえず家帰って……彼氏に聞きます……」
そうだね、そうだよね、うんうん、と言われ、私は仕事に戻った。
もう、その日は何をしたかなんて覚えてない。それでも入社して半年、体は業務を覚えているらしい。回らない頭でも、きちんとその日の業務日誌まで書いて帰宅した。
会社から下り方面に4駅、小さなマンションは駅から徒歩5分。2LDKで家賃は85,000円、折半なら住める金額だと思った。
その部屋の鍵を解き、ドアを開ける。瞬間判った、いつもと雰囲気が違う──。
「あら、帰ってきたの?」
背後からの声にびっくりした、お隣さんの日村さんと言うおばちゃんだった。
「え、帰ってきました、けど……」
「いえね、一緒に住んでる彼が、急に引っ越すことになったから、家財道具は一切合切売るんだって業者と来てね。歯ブラシ一本まで売って、何十万かになったって喜んで帰っていったわよ」
「えええ!?」
慌てて駆け込んだ、本当だ、何もない、テーブルも椅子も、テレビもソファーも、カーテンさえ……!
「そんな……」
「まあ、どうしたの?」
日村さんの、言葉は同情してるけど、声色は楽しげな声がする。
「喧嘩でもしたの? 酷い彼ねー、あなたとの思い出も全部お金に変えていなくなっちゃったのね」
全くその通りだ、私はその場に膝を折った。
「あなた、ここじゃもう寝れないでしょ、行くとこないなら、うちに来る?」
親切な申し出だったけど、私は断った。同情に隠してあれこれ聞き出そうと言う算段を感じたから。
「いえ……友達の家に行きます」
声を振り絞ると、日村さんは残念そうに「そう?」と答えた。
「何かあったら相談に乗るからね」
最後ににこりと笑っていなくなった、ごめんなさい、絶対しないって誓ってしまう。
ドアが閉じると室内が異様に静かだった。何もない部屋って、自分の呼吸の音すら反響するようだ。
ベッドもタンスも……私の衣類すらない。ふたりで買ったベッドは許せるけど、机は私がこっちに来て買ったものだし、ラジカセは中学生の時にお小遣いを貯めて買ったものだった。それすら売られてしまったのか。
何もかも。塵のひとつまで、その部屋からなくなっていた。
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