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選べない過去とこれからの未来・2
「りと!」
そいつが驚くくらいには、大きな声を出せたと思う。ベース兼ボーカル歴十年のバンドマンなめんなよ。
「ウチの妻に何かご用ですか?」
「え、妻? オマエ、結婚したのか」
「……うん。こちら、夫の吉田です」
「ああ、だから平均点突破したんだ。なるほどね~。しかも年下だ、やるじゃん」
完全に上から目線の口調に、更にイライラさせられる。
「一緒にいても楽しいところないでしょ、旦那さん。なんで結婚したの?」
「毎日すごく楽しいですよ。趣味も合うし、料理も上手いし、きれいだから誰にでも自慢できますし。りとは、俺にはもったいないくらいの良くできた嫁です」
一息で告げると、そいつが眉をひそめた。
「あなたはここで何を楽しむんですか? まさか、結婚している女性を口説くなんていう平均点未満の行動をしにきたわけじゃないですよね?」
店内のBGMが、最近不倫で世間を賑わせた歌手のものに変わる。
「いや、そのぉ……じゃあ、俺行くわ」
ドン引きした様子のそいつが、後ずさりしながら出て行った。
これでもう、どこかで会ったとしても絡んでくることはないはずだ……怒りに任せてまくしたてたのはいいが、りとさんの顔を見るのが怖くてそちらを振り向けない。
「行こう、仁くん」
「うん」
りとさんが俺の服の袖を引っ張る。視線は逸らされたままだった。
「りとさん、荷物持つよ」
聞こえていないのか、りとさんからの返事はない。今日はコーヒーを買わずにタツヤ書店から出た。
外は晴れ渡っていて、淡い雪が舞っている。
一瞬空に気を取られている間に、りとさんは先に駐車場へ踏み出してしまった。やっぱり怒っているのかもしれない。駆け足で追いつき、車のキーを取り出す。
「りとさん、大丈夫?」
答えは返ってこなかった。助手席のドアを開けると、りとさんは素早くその中に乗り込んだ。手にしていた紙袋を受け取ると、その手が震えているのがわかる。
「飲み物買ってこようか?」
りとさんが首を横に振る。
「仁くん……」
名前を呼ばれたと思ったら、りとさんは右手を口に当てた。
「具合悪い? もしかして、寒い?」
エンジンをかけておいたので、車内は暖かいはずだ。俺の質問に「違うの」と答えると、りとさんはそのまま泣いてしまった。
とりあえず助手席のドアを閉め、運転席に乗り込む。やっぱり俺の対応がいけなかったのだろうか。
鞄からハンカチを取り出し、りとさんに渡した。素直に受け取ってくれたので、俺の行動で泣いたわけではなさそうだ。それがわかっただけでもほっとする。
一分ほど、りとさんは泣いていた。
「仁くん、ありがとう」
泣きやんだりとさんは、穏やかな表情を浮かべている。
「一週間くらい前に手紙がきたの。差出人を見てすぐに捨てたんだけど、さっきの元彼からだった」
それで元気がなかったのか。
「私、ずっと自分は平均点未満だと思ってた。見た目はこんなだし、性格も良くないし。元彼にもずっと言われてきたから、てっきりそうだと思い込んでたんだ」
りとさんと元彼は、五年ほどつき合っていたはずだ。その間、ずっとそんなことを言われていたのかと思うと、やっぱりもっと強く言っておくべきだったかな、と後悔した。
「でも、仁くんのおかげで自分に自信が持てた。きれいだって言ってもらえたり、料理を褒めてくれたり。そのたびに自分が誇りに思えるんだ」
「俺は思ったままのことを言ってるだけで……」
「うん、わかってる。だからこそ、仁くんの言葉は信じられるの。私、いいお嫁さんになれるよう努力するから」
赤い目をしてこちらを見ているりとさんが、愛おしく感じる。
「俺もいい旦那さんになれるように頑張るから。もう一人で抱え込まないで」
「気づいてたの?」
「なんか元気ないなって思ってたんだ」
「それで、今日ここに連れてきてくれたんだ」
「うん」
頷くと、りとさんの瞳が再び涙で溢れた。
「ありがとう、仁くん。私、本当に幸せだよ」
車の中だったけれど、関係ない。涙目で笑うりとさんを抱きしめた。
「ちょっと、仁くん!」
「俺も幸せです」
抵抗しようとしていたりとさんも、観念したようだった。近くに停められている車はないから、多分大丈夫だろう。
「さっき、呼んでくれて嬉しかった」
そっと体を離すと、りとさんが言った。
「『嫁』って言ってくれたでしょ。あと、呼び捨ても嬉しかった」
「そう?」
必死だったとはいえ、改めて喜ばれると照れてしまう。
気になっていた六歳の年の差は、二人の距離が近づくにつれ、いつの間にか埋まっていた。
「行きましょうか、あなた」
シートベルトを締めながら、りとさんが俺を呼ぶ。
「行こうか、りと」
俺もシートベルトを締めて、妻の名前を口にしてみた。視線を合わせると、どちらも耳まで赤くなっている。
「この呼び名は後々ということで」
「そうだね、そうしよう」
「お昼、何が食べたい?」
「カレーとかどうかな」
「お、賛成!」
帰ったらとりあえず、どんな大きさの本棚が理想なのか話し合ってみよう。
りとはまた新しい本を買ったみたいだし。
了
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