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『気がついたらこの家にいて。それで、自分が何者かもわからないんです。記憶喪失みたいな事になっているらしくて』
わたしがそこまで言うと、男はすっと視線を逸らした。
「おい、おい。なんかいるのか? 勘弁してくれよ」
辺りを伺いながら男は冗談めかして言うが、恐怖の色を隠せない。
――――――。
子どもが、また足を踏みならす。
男が脅えた視線をわたしたちに向ける。
『あの! わたし!』
自分でも驚くくらいの大きな声を出した。
しかし、男はわたしの言葉に何の反応も見せない。
それ以上、わたしは何も言えなくなってしまった。
沈黙が辺りを支配する。
聞こえるのは、時計の秒針の音と冷蔵庫が立てる低い音、そして男の息遣いだけだった。
「もう、やめてくれよ………」
男は、布団を頭から被ると丸くなってしまった。
目の前の光景を前にして、わたしは絶望的な思いに打ちのめされていた。
本当はとっくに気がついていた。
怖くてずっと考えることを拒否していたこと。
これではっきりとしてしまった。
わたしは………わたしたちは、目に見えない存在なのだ。
目に見えない存在。
それは、自分がもう生きていないということを指す。
つまり、自分は肉体を持たない魂だけの存在となってここに留まっている。
事故か事件か、あるいは病気で命を落とし、生前の記憶を失ってここにいるのだろうか。
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