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一年生のときだった。文化祭で放課後残って準備をしていたら、誰かがじゃんけんで負けたやつが全員分の飲み物を買いに行こうと言い出した。二十人ほどが残っていた教室で、全員がわらわらと集まってきて円になる。三分の一は女子だった。
負けたのは、線の細い美術部の女子で、すると誰かがかわいそうだと言い出した。負けた本人もいかにも『どうしよう』という顔で突っ立っており、言い出しっぺの男子も負けるのは男子だと思い込んでいたのか困った顔で頭をぼりぼりとかいた。
「女子ひとりでとか無理でしょ、重いし」「ほんと、男子が行ってきてよ」
他の女子からのブーイングで言い出しっぺが悪者になりかけている。そんな文句はじゃんけんに参加する前に言えばいいのに。女って、なんでこうもめんどくさいんだろう。
わたしはスカートの埃をぱんぱんとはらって立ち上がり、じゃーわたし行ってくるわ、と言った。そんな重くないし、と付け加えると、男子たちから「おー、頼むわーわりいけど」と声が上がった。じゃんけんに負けた女子が泣きそうな顔で「ゆうちゃん、ありがとう」と言ってきた。女子を守るのは、わたしの役目みたいなものだった。
ひとりで売店にむかっていると、わたしを追いかけて来た男がいた。シゲだった。わたしみたいな女のこともちゃんと女として扱う、そういう優しさが苦手だった。
放課後、わたしは砂埃の舞うグラウンドで、毎日泥だらけになってボールを追いかけていた。汗をかいた顔に砂がかかるとそれが泥になり、したたり落ちる汗が目に入るとちくっとしみる。
最初は気になるけれどそれも三十分もすればどうでも良くなり、ボールに夢中になるとそれさえも忘れて、自分が女だということも忘れることができた。
まるでパズルがぴたりとはまるようにミズノのグローブにボールが収まった瞬間や、バッターが大きくバットを振り、投げたボールが完璧にキャッチャーミットに届いたその瞬間、わたしは最高に幸せな生き物になった。
目に汗がはいってもしみなくなり、泥も砂も、肌を焦がす直射日光も気にならなかった。
だけどふとした瞬間に、例えばサッカー部がグラウンドのすぐそばをランニングで走り抜けていく瞬間、わたしはただの女子高生に戻ってしまう。
彼のことを考えた瞬間に、わたしは自分が大嫌いになった。
ぶかぶかのウインドブレーカーを羽織った小柄なサッカー部のマネージャーや、毎朝完璧なメイクとヘアスタイルで登校してくるクラスメイト、折れそうに細い指先でペンを持ち、繊細な線を描く美術部の女子、自分は女の子だと主張するすべてのものが嫌いになる、そんな自分が、世界で一番醜い生き物のように思えた。
フェンスの向こう。ザッ、とグラウンドの砂とスパイクの擦れるような足音を鳴らして、軽い雑談を交わしながら軽快に走るサッカー部の一行が通り抜ける数秒の間、わたしはぎゅっと目を閉じた。
彼のことを視界に入れないよう、細心の注意を払いながらボールを握りしめ、心を落ち着かせようとした。 目を閉じて、地面にしっかりと足をつけ、自分は風車(ふうしゃ)だ、と思い込む。
キャッチャーの美園が待ち構えるそこに、しっかりと確実に、最高の球を届けるウインドミル。
軸足を半歩前に出し、軸足のつま先に体重をかけると腕をスイングして前に出しながらステップ。速いボールを投げるためには、下半身の筋力が欠かせない。誰にも打たれないようなボールを送り出す風車は、土台がしっかりしていなければならない。
彼が好きな、あの短く折り上げた制服のスカートにも興味はない。ないはずだ。だから。
ミットにボールが届き、チームメイトの声がグラウンドに響く。
わたしは自分のため、チームのために誰よりも強い風車になると決めていた。
「夕(ゆう)お疲れ、そろそろ帰ろっか」
「あ、はい」
引退した先輩は大学ではもうソフトボールはしないと決めているはずなのに、まだ練習に顔を出してくれていて、部活が終わるといつも、一緒に帰ろうと誘ってくれた。三年間をソフトに捧げて、これから何をしたらいいんだろうね。と言って先輩は笑った。
先輩の制服のシャツはいつだって皺ひとつなく、練習後の帰り道、先輩からはいつもシーブリーズのいい香りがしていた。
先輩のエナメルバッグには、手作りのフェルトのお守りがたくさんくっついていて、まるでブドウみたいになっていた。
「夕はさ、好きなひととかいるの」
自転車の帰り道、先輩はいきなりそんなことを言った。髪を伸ばし始めた先輩は、毛先をゴムできゅっときつく結んでいた。もともとが段のあるベリーショートだから、結んでもまとまりきらない毛が耳のあたりに散らばっていて、それがわたしには、女の子のかけらみたいに見えた。夏までの先輩にはなかった、女の子のかけら。
「いません」
わたしは答えたけれど、それが嘘だってことに、先輩はきっと気が付いていたはずだ。
先輩はいつも、わたしが自分で気が付くよりもはやく、わたしがバテていることに気が付いていた。そういう先輩だからこそ、わたしはいつも後ろにくっついて、先輩の背中に斜めにかかったつやつやのバッグになりたいと思っていた。
「そっか」
先輩は、すこし間をあけてそう言った。
「わたしは、いるよ、好きな人」
先輩は言った。
伸ばしかけた髪も、夏までより少しだけ短くなったスカートも、日焼け止めも、シーブリーズも、全部がその好きなひとのためのものだと思った。
わたしは嬉しかった。
先輩のあの正確なコントロールも完璧なリリースも、強靭な風車みたいな立ち姿も、すべてが恋をしている先輩のものだったことが嬉しかった。
「……好きな人がいても、勝てますか」
恐る恐るわたしは聞いた。誰かを好きになることは、いけないことじゃない。そう言って欲しかった。
「勝てるよ、当たり前じゃん」
先輩が笑うと、きれいに並んだ真っ白な歯が見えた。自転車をこぐ先輩のスカートが、風に吹かれてぶわっとふくらんだ。日に焼けた力強い両足と白いソックスがまぶしくて、わたしは目をそらす。わたしは先輩のようになりたかった。
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