ウインドミルガール

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ハンドソープで丁寧に手を洗い、消毒液を吹きかける。鏡の中の自分、あの頃とは別人のように白くなった肌、ぼさぼさの山姥みたいになっていたのを無理やりシュシュでまとめた肩までの髪、長い前あきの授乳用パジャマにピンクのスリッパ。 「遅かったね、寝てた? 赤ちゃんがお待ちかねよー」  小さな小さな生き物を抱いて助産師さんが出迎える。  授乳室の中、ずらりと並ぶドーナツ型の椅子にはすでに三人が座っていた。恐る恐る小さな生き物を受け取った。軽い。こんなにも軽いのに、小さな手にはきちんと五本の指があり、触れるとちゃんとあたたかかった。予定日より二十日もはやくこの世にうまれた命には、まだ名前がない。  ここへ来るまではよろよろとしか歩けなかったはずなのに、不思議と背筋がすっと伸びる。 「昨日うまれた人ですか? 赤ちゃんピンク着てるから女の子? 可愛いなあ、うちは男でほら、なんかもう色黒で、ほぼ猿ですよね。あたし、六か月から切迫で、ずっと入院してて、やっと産まれたんですよー。一昨日だから、誕生日一日違いですね」  そこまで言われてからようやく、自分が話しかけられていたということに気が付いた。 「え、あ、はい、昨日」  答えながら、椅子をひとつ挟んだ隣のドーナツ椅子に腰かける。お手本として壁に貼られた写真通り、膝の上に、三日月型の授乳クッションを置き、その上に赤ちゃんを抱いた。クッションに対して自分の赤ちゃんは小さすぎるように見えた。見本の写真の赤ちゃんはもっとしっかりと大きい。不安定な赤ちゃんを両腕でなんとか支えながら、改めて隣をちらりと見る。  産後すぐだとは思えないほど健康そうな肌色をした、小柄で華奢な彼女は、見たところ二十歳になっているかいないかという年齢だ。地肌から五センチほどまでが黒くなった金色の髪を、ピンクのゴムでお団子に結んでおり、丈の長い授乳用のパジャマではなく普通のTシャツにスエットのズボンという出で立ち。スリッパではなくキティの健康サンダルを履いており、足を組んだ上に授乳クッションを挟み、片手で器用に赤ちゃんを支えている。  ぺろんと捲り上げたTシャツから真っ白な左の乳房が露になり、小さな乳首を色黒の赤ちゃんが一生懸命くわえている。赤ちゃんの髪はふさふさで、頭もこちらの赤ん坊よりかなり大きい。 「赤ちゃん小さいですね。でも女の子だし、小さくても可愛くていいですよねー」  授乳しながら軽快に話しかけてくる様子は不思議なほど楽しそうだ。わたしはぷちぷちと授乳パジャマのボタンを開き、彼女を真似て、左側の乳房を授乳口から出してみる。 「おっぱい綺麗ですねえ」  ふざけた調子で彼女が話しかけてくる。答える余裕はこちらにはない。小さな小さな唇に、恐る恐る乳首を近付ける。赤ちゃんはくわえてはくれなかった。どうしたらいいのだろう。  助産師さんに助けを求める視線を送ってみると、目が合った。 「まだうまく吸えないかもしれないけど、初乳は大事だから頑張って吸わせてみてね。」  忙しそうに早口でそういうと、助産師さんはゆっくりしててねーすぐ戻るから、と言い残し、授乳室からすぐそばのLDRに入って行った。すぐにLDR周辺にバタバタと忙しそうな足音が響き、しばらくすると、若い女の人の叫び声とともに赤ちゃんの泣き声が聞こえた。 「あ、またうまれたー」  隣の彼女がLDRのほうに目をやって嬉しそうに言った。 「明日からまた仲間が増えますねえ」  彼女はTシャツの中に左胸をしまい、赤ちゃんをくるりと回転させて、Tシャツをぺろんと捲り上げ、今度は右側の胸を出す。乳首を指先でつまんで赤ちゃんの唇にちょんちょん、と触れると、赤ちゃんはなんの抵抗もなくそれをくわえ、吸い始めた。うっくん、ごくごく。彼女の動きはスムーズで無駄がなく、赤ちゃんとの呼吸も合っていて、つい見惚れてしまった。 「あたし、二人目なんですよー。ひとりめの時は授乳パジャマとか着てたけど、こっちのほうが楽だって気づいたんですよね。ほら、ぼたん外したりするの面倒だし、あたしけっこう巨乳なんで、授乳口が小さくてなんか出しにくいっていうか、ぼたん閉めるの忘れたりとかして乳出しっぱなしみたいになることがよくあってー」  にこにこと、よく喋る唇は、赤ちゃんの唇とよく似ていた。 「若いのに二人目? すごいね。上の子はだれが世話してるの?」  明らかに年下だからついそんなふうに言ってしまったが、二人の母親なら母としては自分より先輩だ。敬語にしようかどうしようかと考えたが、お互いに胸を放り出しているこの状況がおかしくて、まあいいか、と思った。 「旦那がみてたんですけど、あたしが入院して三日でギブアップしたらしくて、今は旦那のお母さんが見てくれてます。赤ちゃん一人目ですか? 一人目のわりに分娩室から出てくるのめっちゃ速かったですよね。一人目って普通すごい時間かかるのに。あたし、入院長かったんで毎日出産見てきて、ああ、もうじき分娩室出てくるなーとか、ほら、ここ授乳室、ナースステーションと近いし、病室がLDRも分娩室も近いから、看護師さんとかの動きでわかるようになっちゃったんですよー」  軽快に話しながらも合間にはきちんと赤ちゃんの顔を確認し、微笑みかけている。その表情はなんだか優しくて、あたたかい。 「もう二十人は聞きましたよ、産まれる瞬間のお母さんと赤ちゃんの叫び声。切迫の入院ってほんと暇ですることなくってー、泣き声で男の子か女の子か予想してみたりして」  あはは、と彼女が笑い、つられてわたしも笑ってしまう。彼女を真似て、乳首を指でつまんで赤ちゃんの唇にちょんちょんと触れてみた。 「あ、ちょっと強めに乳首ぎゅっとつまんで、左手で赤ちゃんの頭を支えてぐっとくわえさせるんです。最初だけ無理矢理でもくわえさせたら、なんか覚えるみたいで次から上手に飲めるようになるんですよー」 「え、そうなの、むりやり?」 「そう、無理矢理です」  また、あはは、と彼女が笑う。彼女の息子は目を閉じて気持ちよさそうにおっぱいをくわえている。 「あ、赤ちゃん唇開いてますよー、チャンスかも」  チャンスという言葉に無意識に体が反応する。学生時代に鍛えた瞬発力の賜だった。わたしは右手の指先で乳首を摘み、左の手で赤ちゃんの小さな頭を、控えめにボールを掴むようにしてこちらに向けさせ、彼女に教わった通りにくわえさせてみる。 「あっ」  思わず声をあげてしまった。赤ちゃんが目を見開き、何かに目覚めたように一心不乱にわたしの乳首を吸い始めたのだ。黒目がきらきらと輝いて、さっきまでぬいぐるみのようだった小さな顔が生きるエネルギーのようなものに満ち溢れているように見える。 「名前、なんていうんですか」  彼女がそう聞いてくる。乳首が痛い、岩のような胸も痛い。赤ちゃんが乳首を吸うたびに、なぜか子宮の収縮が強くなるようで下腹部の痛みがさらに増している。 「まだ、決まってない」  痛みに耐えながらなんとか答えると、彼女は違いますよお、と言ってまた笑う。笑いながらTシャツの中に胸をしまい、赤ちゃんを器用に縦抱きにして背中をとんとんと叩く。ぼえっ、という小さなげっぷが聞こえてきた。 「名前教えて下さい。下の名前。わたしはちなみに、ジュンコっていうんですよ。順番の順ですよ。渋くないですか? 見た目、順子っぽくないってよく言われるんですけど」  金髪のベテランママ、ジュンコ。推定二十歳は赤ちゃんを抱いて立ち上がり、体重をはかるスケールにそっと、優しく滑らかな手つきで赤ちゃんを乗せた。 「ゆう、夕方の夕です」 「うわー、いい名前ですね。てかなんで敬語になってるんですか、ゆうさん」  順子が笑う。ほんとうに、よく笑う子だ。痛みや辛さは感じないのだろうか。二人目ともなると、出産なんてチョロいと思えるのだろうか。こんなにも細くて小さな体をしているというのに。 「あたし、なんとかちゃんのママとか、だれだれの嫁とか言われんの、嫌いなんですよねー。あたしのこと、順子って呼んでくださいね。あたしもゆうさんって呼ぶんで」 「ああ、うん、わかった」 「じゃあまた、三時間後にここでー。あたしは今からがっつり寝ます」  新生児室のドアをノックし、看護師さんに赤ちゃんを引き渡す。何やら楽しそうにしばらく看護師さんと会話したあと、順子は軽やかな足取りで授乳室を出て行った。  
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