ウインドミルガール

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わたしがシゲの部屋に行ったのは、偶然に偶然が重なった不運な出来事が原因だ。あれから十年以上が経った今、彼にとってはもはや記憶の片隅にすらない些細な出来事かもしれないが、わたしにとっては高校時代で一、二を争うほどの大事件だった。  あれは三年の春、部活が終わり、さらにひとり残って自主トレをした帰り際のことだ。  部室から最後に出るものは部室の鍵とトレーニング室の鍵を体育教官室に返却しなければならないという決まりの通り、ふたつの鍵を教官室に返却し、パンパンのエナメルバッグを背負って暗くなったグラウンド脇の通路を自転車置き場に向かって歩いていたときだった。  五十メートル先の自転車置き場に見覚えのある影を見つけた。シゲだった。  校内にはもう生徒はほとんど残っておらず、自転車置き場にもあと数台しか残っていない。サッカー部にしてはいつもよりずいぶん帰りが遅いなと思った。徐々に距離が近くなる。自転車の周りをうろついていたシゲが、わたしの姿に気付いて「おお」と右手をひょいっと挙げた。    一年、二年で同じクラスだったシゲと三年ではクラスが離れており、きちんと顔を見るのは久しぶりだった。どう反応していいのかわからず「あ、おお」とあたかも今彼の存在に気が付いたかのように自分も右手を挙げてみる。   シゲは自転車の脇にしゃがんで、何やらペダルの辺りをがちゃがちゃといじっている。 「やべー、チャリのチェーン完全いかれたわ」  捨てられた子犬のような眼、という言葉があまりにもぴったりくるその表情に、一瞬噴き出しそうになる。自転車の脇にしゃがんだまま、わたしを見上げるシゲ、そしてシゲは、両掌をぱしんと合わせて拝むようにわたしに言った。 「ゆうちゃん、乗せてって、頼む」  彼にゆうちゃん、と呼ばれたのは久しぶりだった。彼はクラスのどの女子の事も親し気に呼んでいたから、同じクラスにいた頃は何とも思わなかったけれど、つい胸がぎゅうっと掴み取られたような気持ちになる。乗せてってって、まさかわたしの自転車にってこと? 「まだ親帰ってねえから車で迎えにも来てもらえねーし、もう学校誰も残ってねーもん。救世主、ゆう様、お願い頼む」 「え、家まで乗せてけってこと? あんたの? 嘘でしょやだよ」 「そこを何とか、お願いします」  確かに校内にはほとんど人影はなくなっていた。ここでわたしが見捨てれば、彼はひとりとぼとぼと、いかれた自転車を押して歩いて帰る事になる。 「……わかった」 「ありがとう! さすが守護神!」  守護神、という言葉に少なからず傷ついたことを悟られないように笑って見せる。他の人から言われれば誉め言葉でも、彼からそう言われると、ボーガンで心臓を射抜かれたような感じがした。 「俺がこぐから、かごに俺のバッグ乗せていい?」  いい? と聞きながら、シゲは既にバッグをわたしの自転車のかごに押し込んでいた。乗せてと言われたからてっきり自分がこいでいくものだと思っていた。自分がシゲのこぐ自転車の後ろに乗るなんて、一度だって想像したことはない。というか、自転車の後ろに乗るほうになった経験が、そもそも一度もなかった。相手が女の子の場合はいつだって有無を言わさずこぐ側だったから。 「うわ、低っ。サドルの高さ上げていい?」  いい? と聞きながら、シゲは既にサドルのレバーをくるくると回している。脚も長いし、背も高い。サドルはかなり上げられている。自分が彼よりも、小さいのだということを実感する。不思議な感覚だった。何でも勝手に決めて次々物事を進めていくリーダーには賛否両論あるけれど、わたしは仕切ってもらうほうが好きなたちだった。 「ケツ痛かったらごめんな」  シゲはわたしの自転車に跨り、そんな風に言いながら後ろの台に四つ折りにしたタオルを敷いた。いつもこうやって、女の子を自転車の後ろに乗せているんだろうか、とふと思った。気の利いた優しさに、嫌でも他の女子の存在を意識させられた。  恐る恐る、自転車の荷台に跨った。スカートの下には半パンを履いているからそれほど痛くもない。背中に背負ったままのエナメルバッグは重かった。シゲの背中は、思った以上に広かった。 「よっしゃ、出発」  シゲは自転車を漕ぎだした。二人も乗っているなんて信じられないようなスピードで、自転車はぐんぐん進んで行った。   制服のベストを着た背中のニットの質感や色合いや、背骨の硬さ、首筋にかかる茶色がかった襟足の絶妙な長さ、太めの皮のベルト。背中と自分の顔の間を通り抜ける風の匂い、一度きりのそれらをどれも鮮明に思えている。  到着したシゲの自宅は、想像していたそれとは違う、壁がひび割れた古い市営住宅の一室だった。雨が降ったわけでもないのに階段にも廊下にも冷たく湿った空気が流れているような薄暗い五階建ての建物で、シゲの自宅はその四階だった。エレベーターのない四階。 「親が迎えに来れないとか、車とか嘘だよ。うち車ないし。親いねーからばあちゃんと二人暮らし。上がってく? 嫌ならいいけど」  急にシゲが、今までとは違う人に見えた。学校でのシゲは、恵まれ過ぎた神様の贈り物みたいな人だった。そう見えていた。  わたしは神様の贈り物じゃないシゲを否定したくない一心で、「嫌じゃない」と答えていた。  桃色のドアに銀色のドアノブ、重そうな質感のドアの横に『重森(しげもり)』と紙のシールを貼っただけの表札。エナメルバッグを背負った彼がドアを開け、小さく「ただいま」と声をかける。返事はなかった。  人ひとりがやっと立てるくらいの小さな玄関にはシゲの脱いだ靴が一足と小さなゴム草履、靴箱はなく、スパイクの箱が二つ積み上げてあるだけだった。 「おじゃまします」  靴を脱いで床に足をつけると、靴下越しにもひんやりと冷たかった。玄関を入ってすぐの部屋の襖を開けるシゲの後ろについていく。ちらりと台所らしき部屋が目に入った。スーパーの袋とカップ麺のカップが散乱した小さなテーブル。ゴミ箱にささっているように見えるいくつもの割り箸。  シゲの部屋は折り畳みのベッドだけがぽつんとある、暗くて狭い部屋だった。 「あの、おばあちゃんは?」 「ああ、寝てる。あんま起きれないから」  薄っぺらい絨毯には染みがたくさんついていた。シゲはエナメルバッグをどさっと落とし、ベッドに座る。わたしは迷った挙句、絨毯に直接ぺたりと座った。話すことが思いつかなかった。ただ、何か言ってあげたいとおもうばかりで、でもそれが同情を表すような言葉ではいけないということはわかっていた。彼の方からなにか話して欲しかったけれど、彼はまるでわたしを試すかのようにじっとただ黙っていた。 「わたし、重森が好きだよ」  なぜ急に、そんなことを言ってしまったのかわからなかった。ただ、彼はわたしがそう言うなりベッドから立ち上がり、わたしの頭を引き寄せて自分の胸に抱き寄せた。ぎううっと。 「帰るね」  わたしが言うと、彼はうん、と言って頷いた。シゲに告ってしまった。これはわたしの黒歴史だ、と思った。逃げるように自転車をとばして家に帰った。胸は爆発しそうなほど鳴り続けていたし、息切れもした。どうしてあんなことになってしまったんだろう。だけど次の日、偶然廊下で鉢合わせたシゲは驚くほどいつも通り、今まで通りのシゲだった。あれは夢だったのだろうかと思うほど。
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