慌てる男と招く音

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慌てる男と招く音

 初夏。 芽生えた木々の彩りが濃くなり、命の臭いが濃くなる季節。  太陽がそろそろ真上を向く、昼間の公園。 子供達が走り回り、その姿を母親達が慈しむ視線で見つめていく。爽やかな涼風が木々を通り抜け、そこにいる全てのものを優しく撫でていった。  そんな、何処にでもある風景。その風景に一人、ミスマッチな男がベンチに腰かけていた。  一体、何がミスマッチなのか。  姿形がおかしいという訳では無い。顔立ちは柔らかく中性的だが、少しでも男らしさを出そうとしているのか、その顎に生やした無精髭はその貌にまるで合っていなかった。少し長い髪の毛は後ろに持っていってあって、逆だった髪が柔らかな風に揺れている。彼のやや細めの体を包む衣服はチェックのシャツにジーンズという格好で、この現代社会の片隅にどこにでもいそうな普通の若者ということがわかる。  だがこの時間帯ではこれぐらいの年代の男ならば大学に行くなり就職しているなりしているだろう。例え営業職として外回りをしている最中だとしても、この平日の昼間に気の抜けた表情で空を見上げたままベンチに座っている彼がロクな人間では無いことを察する事があまりにも容易であった。  言ってしまえば無職。つまりフリーターやニートのように見えてしまうのだ。男は陽だまりに寝転がる直前の猫のような欠伸をし、目の端に浮かんだ小さな涙を拭うことなく瞳を閉じる。  ふと、男のすぐ近くで着信を告げるメロディが鳴り響く。何処でも耳にするような流行の曲。男は心底面倒臭そうな顔をしながらジーンズの右ポケットからスマートフォンを取りだし、会話を始めた。 「もしもし? あぁ、調子はーーーうん?飯沢がどうかしたのか。そろそろ夜逃げでもしたのか?」  口から放たれる声はやや高いテノール。 スマートフォンのマイクに向かってからからと笑う彼の表情はそのすぐ後に豹変する。 「なっ!? 待ってろ、すぐ行くからな!」  一瞬で真剣な表情になった彼はそう言うなり隣に止めてあった自転車に飛び乗り、急発進。矢のような勢いで公園を飛び出した。 その数秒後、幾多のクラクションの悲鳴が道路に響き渡ったのだが、何かがぶつかる音はしなかった。  ここ、久我市は首都の隣県にある若干小さい落ち着いた雰囲気のある街だ。街を覆う林に包まれるように、市街地が建造されている。市街地の中も街全体の意向で様々な所で木々や花を見ることができる。 つまり、広大な自然と市街地が適合したほのぼのとした街なのだ。 それはさておき、男は公園を出た時と変わらぬ速さで走り、建物の近くでスピードはそのままに進路を変える。飛び込むように駐輪場に突っ込み、飛び降りると慣性の法則に従った主人を失った自転車は、チェーンを取り付けるアルミ製のバーにぶつかってけたたましい衝撃音を立てて倒れる。しかし、男はそれには目もくれずに建物のガラス製のドアに向かって走っていく。  開かれた建物の自動ドアには「久我市総合病院」と書いてあった。  受付で愛想笑いを振りまいていた職員などには脇目も降らず近くの階段を駆け上がる男に職員は目を丸くして声を上げるが、そんなことに付き合っている場合でもないと、彼は急いでるんだと叫びながら脚を上げ続けていく。  目的地は501号室。ひたすらに駆け上がっていったが、流石に体力が切れたのか5階までペースを崩さず…という訳にもいかなかったようで、男は息を荒げながら501号室のドアを開けた。 「飯沢ぁっ!」  ベッドに横たわっていたのは動かなくなったの姿――――  ではなく、普通に漫画雑誌を読んでゲラゲラ笑う飯沢 俊の姿だった。 「お、どうした弘人? そんなに息を切らせて。あぁ、そんなに俺に会いたかったのか! これだからモテモテは辛いなぁオイ」  口から放たれる声はバリトン。短く刈り上げた茶髪が彼の野性的な印象を際立たせている。  白い歯を見せながら豪快に笑う俊は至って元気そうだ。大柄な肉体を誇っている彼の右足に堅固そうなギブスがしてあるが、それを除けば健康体そのもののようだ。 「で、そのモテモテ君がなんでベッドにいるのかな?」  弘人は少しげんなりした顔で飯沢を見る。脚さえ見なければ本当に怪我人なのかと疑いたくなるほどに俊は生気に満ち溢れていて、額に汗を浮かべながら肩で息をしている弘人の方が逆に元気がなさそうであった。 「あぁ、バイクで盛大にずっコケてなぁ」  ギブスを軽く叩きながら簡潔に返されるが、弘人は特に気にした様子はなく続ける。 「そういえば、綾は何処に行ったんだ? 電話くれたんだけどな」 「綾なら俺の着替えとか取りに行ったぞ。もうすぐ帰ってくるんじゃないか」  綾は俗に言う、俊の恋人だ。弘人に慌てた調子で電話をかけてきた張本人であり、彼の古くからの友人でもあった。 「そうか。なら、あとは可愛い彼女に任せて俺は退散しますか」  弘人がそう言って踵を返そうとした瞬間、物凄い勢いで足音が近づいてくる。 「俊―――――ッ!!」  ソプラノの叫びが聞こえる。その声は段々近づいてくる。静かにしなければならない病院の構内で大きな声をあげるのはどうなのかと弘人は口に出そうとしたが、受付の声を無視した挙句に全力疾走した彼が言えたことではないことを思い出し、口を結んで言葉を飲み込んだ。  501号室のドアをぶち破る勢いで開けた綾は、そのまま俊に向かって飛び掛かるように猛ダッシュする。元々相部屋であったこの部屋がたまたま飯沢以外に患者が居なかったことが幸いであった。もし他の患者やその親族がいたのであれば、彼を含めた3人は睨み付けられるなり、怒号を上げられても何もおかしくはないだろう。  尤も、綾にはそのような制止など届かないだろう。俊のすぐ近くまで寄った綾は、中身が詰まった大きめのポリ袋を彼に手渡す。 どうやら中身は衣服や下着類などのようだ。やや小柄な綾にはこの大きさは辛いだろうが、全く疲れた様子もなく、むしろ平然としていた。後ろ髪を纏めた髪型が、小動物の尻尾を連想させると弘人はなんとなく思った。 「俊、これでいいの!?  他に何か欲しいのは!?」 凄い勢いで飯沢に向かって問いかける綾。 今にも飛びつきそうな勢いで騒ぎ続ける綾を、彼は目尻を下げ、にこやかに笑った。弘人に向けたものとは違う、愛情に満ちた笑顔。 「うん、大丈夫みたいだ。有難うな、綾」  中身を確認したのち、そう言って俊は綾の頭を撫でる。 細くきめの細かい茶色い髪を優しく撫でられた綾は、目を閉じ、顎の下を触られた猫のように幸せそうな笑い声を上げる。  二人の間に何とも言えない恋人同士が作り出す雰囲気というか、甘ったるい空間のようなものが構成されていく。そして悲しいことに、その二人のに弘人の居場所は無い。  正直、いてはいけないような気がしてきた弘人は2人に気づかれないようにこっそり病室を出る事にした。 「なんだ、元気じゃないか」  そう一人で愚痴りながら階段を降りていく。心配して飛んできたのはいいものの、これではくたびれ儲けだと思いながら踏み下ろしていく弘人の足は、彼の思考と違って軽やかな一定のリズムを刻んでいた。   そうして降りている時に、2階の踊り場に差し掛かったところで弘人の耳の奥が何か小さな音をキャッチする。それは余程の事が無い限り聞き逃してしまうような、小さく細い音の連なり。それがなんだか無性に気になって弘人は眼を閉じ、聴覚に意識を集中させていく。  やはり聞こえる。鳥の鳴き声のような、細い旋律。弘人はその旋律の聞こえる場所に誘われるように歩いていく。階段を1階まで降りていくと、旋律はどんどん大きく聞こえてきている。ただ音色の方向へ、夢遊病の患者のようにふらふらと誘われるかのように無心で歩みを進めていくと、いつしか中庭らしい所に出ていた。  そこは久我市の建物らしい、緑に覆われた大きな中庭だ。吹き抜けのスペースにはほんの僅かであるが木々が生い茂り、その下に広がる天然芝はきちんと手入れがされていた。 その小さな自然の塊のほぼ真ん中に、旋律を奏でている正体がいた。  それは、とても美しい女の人だった。  例えるならば、一輪の白い花。 黒い瑞々しい髪は腰まで届き、白いワンピースから見える肌は病的なまでに白い。 それでいて不健康そうな印象はまるで無く、その瞳は生気に溢れていた。  そんな彼女が奏でていたのは1本のフルートだった。  たった1本の木管楽器で、この世界はここまで彩られるのか。細いが力強い旋律は、弘人の心に染み渡っていく。  弘人はここが病院ということ、何故ここにやって来たのか、そもそも自分自身がここにいる事すら忘れて、ただただその旋律に聴き入っていた。和音もない単旋律を奏でる1本のフルートが創り出す幻想的な音の連なりに圧倒され続けていたのだ。  幾ばくかの時間の後、旋律が途絶える。曲が終わりを迎えたからだ。弘人は眼を閉じたまま、 余韻すらその曲の一部のように感じていた。  自分自身が気が付かないまま、弘人は両の手の平を叩いていた。乾いた音が連続して鳴り響き、女性は驚いたように振り向くと、急に頬を赤らめる。どうやら、弘人の存在に気付いていなかったようだ。 「あ・・・いたんですか?」  メゾソプラノの声と微かに俯きながら薄く浮かべる笑顔が、 彼女の持っていた儚げな印象をより一層強調されていく。弘人は少しだけ緊張しながら、彼女に声をかけていく。 「ごめん、邪魔しちゃったかな?」 「そそそそそそ、そんな事無いですっ」  弘人の言葉に女性は顔を赤くしたまま慌てて反応する。両手を振り回しながら必死に否定している姿は、弘人が先程まで感じていた儚い印象とまるで違って見えていた。 「ま、まぁ、凄い上手かったよ。びっくりした。圧倒された……っていうか」  忙しなく両手を動かし続ける女性に圧倒されながら、弘人はありのままに本心を言う。それを聞いて彼女は心底嬉しそうな顔をする。 「本当ですか!? ありがとうございます!」  それは、太陽のような笑顔だった。思わず目を瞑ってしまいそうになる程に、頭上に登っている太陽に負けることのない眩しさに、弘人は自分の顔に熱が集まっていくのを自覚していた。  弘人はその笑顔をまた見てみたいと思い、その口から零れ出した言葉は「また来てもいいかな?」という呟きであった。  消え入りそうな小さな呟きを聞き逃すことなく、彼女はしっかりと弘人の言葉に返す。屈託のない笑顔が、一層眩しさを増していく。 「勿論ですよ。私なんかで良ければ、いつでも聴きに来てくださいね。えぇとーー」  女性は眉を微かに下げながら、言葉を詰まらせる。弘人は一瞬だけ戸惑うがすぐに自分自身が名乗っていないことを思い出し、わざとらしく咳払いをした後に女性を真っ直ぐに見据えながら、自分の名を名乗る。 「俺は弘人。熊谷弘人。ここの患者じゃあ、ないんだけどね。ただの見舞い人さ」 「弘人さん、ですか。御見舞いにきた方だったんですね。私は―――」  瞬きをする程の沈黙の後に、女性の少し厚い艶の有る唇が形を変えた。 「由香です。越水由香」  初夏に吹く少しだけ湿り気を帯びた風が、二人の間を軽やかに通り抜けていった。
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