卵と枇杷

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卵と枇杷

「おい寛次、ぬかるみだ。転んで骨を折るな」  軍需工場へ奉仕に向かう途上で同級生がこう声をかけたのは、親切からではない。 歯をむいた寛次を、隣の黒田がつついた。 「怒るな。なあ、兄さん、よくなったのか」 「まだだ。早く戦地に赴いてくれないかな」  二ヶ月前、出征直前だった寛次の兄が、濡れた石段で滑って腰の骨を折った。近隣や寛次の同級生の目は冷たいが、兄も両親も出征の遅れを内心で喜んでいる。神風特攻隊を崇拝する寛次には、許しがたいことだった。  黒田はなだめるようにあくびをし、工場の上手に点在する畑の方を見た。農家から鶏の声が聞こえた。 「寛次。俺はなあ、たまには卵を食いたい」 「黒田、贅沢を言うな。緊張感のない奴め」 「何だよ。お前だって食いたいくせに」  黒田は足を早め、先に工場に入った。寛次も何も言わず、黒田の近くの持ち場についた。 ところが生徒達が作業を始めて間もなく、空襲警報が鳴った。監督官が退避と叫び、皆が全力で裏の雑木林へ走た。 寛次も黒田を促して逃げようとした。だが、黒田は見当違いの通用口に向かっていた。 「黒田、そちらは畑だ。危険だ。おい!」  黒田は寛次の声に気付くと振り返ったが、顔を逸らし、通用口を出て行ってしまった。  黒田は卵を盗みに行った。そう直感した寛次は、避難する人々の流れを強引に横切った。  通用口を出ると、早くも飛行音が聞こえた。  寛次は畑を横切る黒田の背中を認めつつも、雑木林に入った。黒田のように畑に入っては、身を隠す場所がない。  雑木林の中を畑に沿って走りながら、寛次は怒りに任せて防空頭巾をむしり取った。食べ物が足りないのは皆同じなのに、我慢できないとは。兄や両親と同類の身勝手さだ。 遠くに見える黒田は、もう農家の庭先をうろついている。しかし卵は見つからないのか、今度は枇杷の木に登り始めた。 機関銃を搭載した戦闘機が一機、急降下してきた。明らかに木の上の黒田を狙っていた。寛次は息を飲んだが、黒田は実を盗るのに熱中していた。そしてかなり遅れて敵機に気づくと見るも哀れなほど焦り、木から落ちた。 同時に工場が掃射され始め、大音量に寛次は余裕なく身を伏せた。恐怖から、敵の引き上げを確信するまで顔も上げられなかった。 ようやく雑木林をはい出た時には、工場は倒壊し、農家は燃えていた。 寛次は枇杷の木の辺りに目を凝らしたが、黒田の姿は見えなかった。 すると、農家の生垣に沿った水路から、何かが出てきた。黒田だ。黒田は驚いて立ち上がった寛次を見つけ、とぼとぼと歩いてきた。表情はこわばり、全身泥だらけだった。 「卵は、なかったよ。枇杷もだめになった」 「ば、ばか者」  寛次は教師のように大喝しようとしたが、甲高い声になった。
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