Ural region Russia / Dec 8th 19:18(Local Time)

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 エイジは青ざめていた。いまエイジが居るのは、マダムが大騒ぎを起こした部屋から上に一つ、横に一つずれたバルコニーだ。すぐ下の階に、マフィアたちが集まっている。きっとあのSPもいるだろう。マダムと一緒に部屋に入ったはずの男が見当たらず、衣服だけが残されているのを見て、どう思うか。 『マダムとよろしくやって、裸のまま帰ったのか』 などとは思ってくれまい。これから自分を探す連中が、わんさか上がってくるはずだ。  エイジは左頬に手を当てると、即座に告げた。 「エルフよりディーボへ。直ちに離脱せよ(エスケープ イミーディエットリー)。合流ポイントはプランB、車両を入手せよ。繰り返す。エルフからディーボ、離脱(エスケープ)、離脱、離脱」  すかさずウィルコが返る。いつも口数の多いドッジだが、こんな時はグダグダ言わず助かる。  エイジはバルコニーにザイルを結ぶと、一気に地面まで垂直降下。そのまま城を囲む雑木林へと全速で走る。だが、深い積雪がその行く手を阻んだ。 「くそっ」  膝まで埋まる雪は、進むごとにさらに深さを増す。すぐに腰まで埋まるほどになった。ほんの百メートルの距離が恐ろしく遠い。雪をかき分けながら、どうにか半分まで来た時、 ダァァン! 銃声が響き、右前方で雪面がパッと散った。振り返ると、さっき降りてきたバルコニーから男が腕を振り回し、大声をあげている。その右腕がエイジへ向けて突き出された。エイジは反射的に身体を屈める。真っ黒なアンダーコートは白い雪原にさぞ目立っていることだろう。 銃声が次々とこだまする。しかし、この強風下でしっかり狙いもつけずに乱射した拳銃弾など、そうそう当たるものでもない。エイジはそう思いなおすと、ポケットから小さなコントローラを取り出し、スイッチを入れた。バルコニーの男の足元が一瞬輝き、次いでオレンジの爆炎が噴き出した。男がバルコニーから空中へと吹き飛ばされる。続けて数回、こんどは城の内部から爆発音が響く。ホールに撒いてきたボタン型フラッシュグレネードだ。音と閃光だけで殺傷力はないが、一般客はいまごろ大パニックだろう。ドッジがうまくやっていれば、大量の黒煙も噴き出しているはずだ。これでしばらくは敵の統制を崩せる。エイジは森の縁までたどり着くと、さらに深くなる雪のなかを、ひたすら逃走する。 (しかし……)  後ろを見ると、かき分けた雪の溝が線路のように続いている。城からエイジの背後まで続く一本道だ。時間が経てば風雪で消えるだろうが、しかし敵がパニックを収めて行動力を取り戻すのと、どちらが早いか……。  エイジは都合の良い考えをさっさと捨てた。周囲を見渡し、前方の木々の立ちならびを目でたどる。一本の木にあたりを付け、その右側をかすめて進む。雪をかき分けながら十mほど進むと、今度はそこから後退する。かき分けた雪溝を崩さぬよう、注意深く溝のなかを踏み戻る。先ほどの木の根元まで戻ったエイジは、ザイルを頭上の枝へと投げ、樹皮に跡をつけないよう慎重によじ登る。ウラルの野生樹は枝ぶりもたくましく、エイジの体重ぐらいでは折れそうにない。太い枝のうえに立つと、思った通りいい間隔で木々が並んでいる。もう一段うえの枝へザイルをかけ、中央をゲッタウェイヒッチで結ぶ。二本のロープが垂れ下がる。テンション側に体重をかけ、ターザンの様に隣りの木へ飛び移る。そこからリリース側のロープを引くと、結び目はハラリと解け、ザイルを手元にたぐりよせることができる。同じ要領で、もういちど飛び移ると、エイジはそこで木を降り、根元にできた雪溜まりのなかへ体を揺すって潜り込んだ。雪上に跡を残さぬまま、十メートルほど離れたことになる。  銃を抜き、雪に潜ったまま追っ手を待つ。すぐに甲高いエンジン音が聞こえてきた。スノーモービルが二台、エイジの刻んだ道筋をたどってくる。その後ろからも、さらに五、六人が徒歩で雪をかき分けながら追ってきている。エイジは雪溜りに潜ったまま、スノーモービルの動きをのぞき見ている。案の定、二台のモービルは急停止した。エイジの痕跡が突然消えたことに戸惑い、大声でなにかを言い合っている。エイジは一気に立ち上がり二発ずつ発砲。一人目はなにが起こったのかもわからぬまま、二人目はエイジの姿を見た瞬間、絶命した。  銃声を聞いて、後続の歩兵が闇雲に発砲をはじめる。エイジは大股でスノーモービルへと近づくと、それぞれの死体から自動小銃を奪い、一台のモービルにまたがった。二十メートルほど離れてから、後方のモービルへ向けてフルオート射撃。モービルが爆発炎上する。怒鳴り合うロシア語を後に、エイジは一気に森の中を駆け抜けた。  山あいの夜道を一台のRVが走っていく。モスクワへ向かってハンドルを握るドッジは上機嫌だった。 「ふん、ふふん、ふんふんふーん」 「なんだよ、気持ちわりぃな」 「ん? んー? ふっふっふーん。見たいか。見たいか。なぁ、おい、見たいか?」 「うわ、見たくねぇ」 「いいから見ろよ、後ろのカバンの中。気をつけて扱え、コワレモノだからさ」  エイジは渋面を作りながらも、後部座席に置かれたカバンを手繰りよせる。 「なんだ、これ。どさくさに紛れて、かっぱらってきたのか?」  そこには青いガラス片の貼られた美しい壺が押し込めてあった。 「きっと値打ちもんだぜ。幾らになるかな。おい、エイジ。俺はもうこんな仕事やめて、遊んで暮らすぞ」  夜明けへ向かう空が、美しく瑠璃色に染まっていく。車はハイウェイへ上がった。
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