一 邂逅

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 紳士はそう言いながら、名刺を差し出した。名刺には『株式会社古井根企画 代表取締役 古井根正一位』とあった。  見ず知らずの俺にいきなり名刺を差し出して来るとは、随分トッぽい奴だ。名刺作りたてで、誰でも良いからとにかく配りたくてしようが無いのかしらん。 「お珍しい名前ですね。僕は、土橋寛久(どばしひろひさ)と言います。ご免なさい。名刺は持ち合わせて無いので。」  俺は差し出された名刺を押し頂きながら、こう答えた。押し頂く形になってしまったのは、現在プー太郎という俺の引け目がそうさせたのか、それともこの紳士に何やら得体の知れない威厳のようなものが感じられた為であろうか。 「失礼を承知で申しますが、今あなた、結構暇な身の上でしょう。」  古井根は、にこやかな顔で、だがズケリと俺に言った。 「・・・・・・。」  不思議な事に腹は立ちはしなかった。が、返事には些か困った。 「一つ、この社を掃除して見ませんか。箒とか雑巾とかは社の後ろの小屋に有りますので。あっ、今日とは言いません。気が向いたら。良い事有るかも知れませんよ。」  古井根は俺の返事も待たずに続けると、 「では、又。」  と爽やかな笑顔を残して去って行った。後に残された俺は唯呆然。陽気の加減でちょっとネジの緩んだ奴に出会っちまったかな、と思った。それにしても、嫌味なくらい・・・・・・・いやいや、嫌味さは欠片も無い爽やかな笑顔だった。きっと女子にはモテモテだな、と余計な事まで思わされてしまった。  明くる日である。何がどうしちまったのか、朝も早よからご苦労さん、俺は例の社にやって来て掃き掃除やら雑巾がけ、参道を清め、社を磨き立ててしまっていた。  昨日はさして気にも止めなかったのだが、今朝起きて朝飯を済ますとまるで仕事に向かうような心待ちでこの社にやって来て掃除をしてしまっていたのだ。  大体最近、朝はダラダラして朝飯になんてろくに食べた事が無かったというのに、どういう風の吹く回しなのか、自分で自分が解らないほどである。  その日は、一掃除終えて帰路についた。ひょっとして、古井根が現れるかなと、ちょっぴり思ったりしたが、奴は来なかった。まあ、待つ気は無いので、帰宅した。後は気楽に寝転んで、翻訳物の探偵小説を読んで残りの一日を潰した。  で、明くる日もやっぱり社にやって来て掃除に励んでしまったこの俺だ。しかもちゃんと朝飯も食べてるし。どうしちまったんだ俺。この日も古井根は見当たらない。  で、次の日も次の日も・・・・・・・雨にも負けず風にも負けず・・・・・・・ってほどでもないが。  飽きもせず懲りもせず、お掃除振りも板に付き始めたかなって七日目だった。  一掃除終えてみると、何処から現れたのか。参道に古井根が立っていた。
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