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まだいじめは始まりません。これからです。
(四)白装束の何が悪いんじゃ?
---と言っても全く陰りがなかったのかと言うとそうではない。
康祐がこの五校目の学校に転勤して間もなく、「白装束の集団、道路を占拠!電磁波研究所!オウムの再来か」と言う事件がマスコミを賑わせた。
実は、彼はこの白装束集団の母体である来岩現正法に昔所属していたのである。
これは妻も知らないことであった。
そしてニュースの翌日、康祐はその来岩現正法の本をいくつか持って教室に現れた。
「今話題になっている白装束なあ。あれ昔俺入っとってん。これがその本や」
さあ、それを言ったが大変。生徒達は一斉に気味悪がる。
「先生おかしいのんとちゃう?」
「先生ほんまに白装束に入っていたんや」
「わー。気持ち悪い。先生、近くに寄らんといて」
ちょっとした騒ぎになった。
「これは困ったぞ」
康祐は帰宅してから妻にその話をした。
勿論、妻は何のことか皆目分からない。
しかし、案の定夫婦喧嘩になった。この妻も夫が昔白装束にいたということを気味悪がったのである。もう今は入っていないことを説明しても無駄であった。この夫はカルトにまで足を突っ込む「危険人物」だと映ったのであろう。
「白装束の何が悪いんじゃ。白装束が悪いんやったら四国のお遍路さんも悪いんか?」
そして、頭にきた康祐は、その夜、妻と事に及んだ。
その頃の康祐は完全に屈折していた。何かあると妻を縛り、罵声を浴びせるのである。
いつものようにベールを被った妻洋子を縛り上げると、いきなりスカートを脱がし、思いっきり乳首をつねった。
「痛い。いつもより痛い。何かあったの?」
「うるさいわ!次は絞首刑じゃ」
アフガニスタンでは絞首刑というものは見たことがなかったが、一度「お試し」したかったのだ。
そうして康祐は洋子の首を締めにかかった。
「うー、やめて」
洋子は本当に苦しかったのか、顔が鬱血している。殺しては何にもならないと思ってすぐに手を緩めた。
「何じゃ、おもろないのう。今日はこれで終わりか?」
洋子は慌てて服を着替えた。ただならぬ康祐の態度に怯えていたのである。
「この人殺し!あなた狂ってる!」
そう言うと、いつものように隣の部屋へ避難し、携帯で警察を呼んだ。
とにかく、国家権力の犬というのは来るのが早い。その迅速さにはただただ驚くばかりである。
「また、あんたらか。今度は一体何や?」
警官が鷹揚に尋ねる。
「この人、人殺しなんです。私の首を絞めて殺そうとしたんです」
「アホなこと言うな、ちょっと夫婦げんかしただけやないか?」
そして康祐は白装束のことを話した。
「そうか?そんなら明日、公安の人が来るから話してくれるか?」
当時の白装束集団は公安からの監視対象であったようである。
康祐は承知した。
その夜、洋子は実家へ帰った。ドアから出る時に洋子は「人殺し」と叫んで出て行った。
洋子が出て行って一人になると、、またあの幻聴が聞こえてきた。
「今度は絞首刑?この悪魔!あなたは悪魔よ。いつか奥さんにも愛想をつかされるから覚悟しておくことね」
「うるさい。黙れ。俺は悪魔なんかじゃない。あの時は殺さなければいけなかったんだ。大体お前なんか今だったらタリバンかアルカイダに殺されていたんだ」
「それは詭弁よ。命乞いしているか弱い女によくもピストルを向けられたものね」
「うるさい!出て行け!」
その声は大声であるが、康祐の独り言となってアパートの近隣住民にも聞こえていた。
翌日のことである。学校から帰ってアパートにいた康祐はけたたましいドア・チャイムの音で玄関へ飛び出した。
二人の体格のいい男がドアの外にいた。
「公安の者です」
本当に公安が来るとは思ってなかった康祐は何を思ったのか、体格のいい男に尋ねた。
「本当に公安の方か証拠を見せて下さい」
すると、ドア越しに二人の私服警官が警察手帳を見せた。本物である。
公安の警察官というのは、どう見ても警官には見えない。その辺に当たり前のように突っ立っているただのおじさんの様だ。それにしても公安は左翼を取り締まるものとばかり思っていたが、白装束集団はれっきとした右翼なのである。公安も暇なんだなあ?と康祐は思った。
「まあ、入って下さい」
公安の警官二人を部屋へ通すと、彼らは名刺を手渡した。一人は警部で、もう一人は警部補であった。そして、おもむろに警部の肩書を持った年配の方の警官が口を開いたいた。
「誰か大阪府内にいる電磁波研究所の方の名前を教えて頂けませんか?」
「いいですけど、私が入っていたのはもう十年以上前のことですから」
こうして、康祐は知っている名前を二、三人公安に「売った」。
さて、大変なことになってきたぞ。
そう思った康祐は、妻の姉に電話を入れた。
洋子の姉はイギリスに住んでおり、イギリス人のご主人と二人のお子さんがいる。
「それは校長先生に話すべきよ。あなたは何の関係もないんだから」
それが姉のアドバイスであった。
実は、この姉は日本の実情には疎く、相談して上手くいったためしがない。
しかし、藁をもつかむ気持ちだった康祐は、その提案に飛びついた。成程、面倒見がよくいい校長ならばきっと話を聞いてくれて何かの助けになってくれるかも知れない。
そして校長との話し合いになった。
「あのー。実は私、あの今話題になっている電磁波研究所に昔入っていて、この本生徒に見せたら気持ち悪がられて、どうしたらいいか困っているんです」
そう言って本と機関誌を数冊校長に差し出した。
校長は分厚い眼鏡をかけた気の弱そうな奴だった。しかし、態度は高圧的であった。自分の気が弱いところを隠すために、ひたすら高圧的に出る人間、そして、そのことによって自我を辛うじて保っている人間と言うのは、どこにでもいる。それだけの人間だったのだ。
「まあ、それはあんたの責任やから知らんが、本を見せたことは教育委員会に報告させてもらうで」
そんなことを教育委員会に報告する必要など、どこにあるのだろうか?しかし気の弱い校長は親から文句が出る前に先手を打とうとしたのだった。「教育委員会に報告する」という意外な答を聞いて、康祐は一瞬たじろいだ。しかし言うべきことは言わなくてはならない。
「これは現代社会の授業で見せたんですよ。今話題となっていることを話して悪いんですか?」
「授業と関係のない宗教的な本を見せること自体が問題なんや」
「そんなのが問題になるんやったら、前音楽室からアメージング・グレイスが聴こえて来たんですけど、あれはキリスト教の音楽じゃないですか?」
校長は一瞬だが言葉を詰まらせてしまったが、すぐに気を取り直して反撃に出た。
「それは教科書に載っているからええんや。とにかく報告させてもらう」
その時の校長は「天下を取った」ような満足げな顔をしていた。
こうして、康祐のことは教育委員会に報告されてしまった。
(六)土下座教師の登場
それから暫らくして、電磁波研究所の事件のことも忘れ去られ、生徒も何も言わなくなった。帰郷していた妻も帰ってきた。しかし、こんなことで逐一教育委員会に報告する校長に康祐は嫌気がさしてきた。
しかし、最初の一年間は全てが順調であった。昔の進学校での頑張りも戻ってきた。帰るのもいつも遅かったが、康祐には一向に苦にならなかった。
康祐は三年生の世界史と二年生の日本史と一年生の現代社会を教え、他の社会科の教師も「何でも教えられる便利な先生」と康祐のことを評価していた。
生徒からの信頼も上々であった。「授業が分かりやすく楽しい上に、最も話しやすい先生」であったからである。
しかし、学年末に問題が発生した。
柔道部のことである。
先述したように、康祐は部活動まで手が回らず、部を全て講師の先生に任せていた。
これが、その講師の先生の怒りを買ったのである。
元々、この先生は康祐が柔道部を全く顧みないことに関して文句一つ言ったことがなかった。だから、悪いとは思いながらも部活動を任せっきりにしていたのである。
春休みに入った頃、康祐は久しぶりに柔道部を覗いてみた。
すると、かの講師の先生が道場の入り口で言った。
「小山先生、いい加減にして下さいよ。あなた土日の練習に一回でも来たことがあるのですか?」
そう、この講師の先生は御熱心なことに近くの高校の柔道三段の先生の所まで生徒を連れて、土日は練習に行っていたのである。
しかし、この先生からこんな言葉が返って来るとは一考だにしていなかった。まさに青天の霹靂である。
「(困ったなあ、この先生、とうとう怒りだしたか)」
そう。この講師の先生は練習に全く顔を出さない康祐に、実は内心不快感を抱いていたのだ。しかし、口で言ってくれなかったので康祐に分かり様がなかった。実は、康祐は広汎性発達障害も抱えていた。この障害を持った人間は口で言わないとわからないのである。相手の態度や言い回しで何かを感じ取るような芸当はできないのである。この講師の先生は、「練習行かなくていいんですか?」と問う康祐に、いつでも「私がやりますからいいですよ」と言ってくれていたのだった。
事実、康祐は子供の頃は考えられないようなことを平気で言って周りの大人を狼狽させることがあった。
例えば禿げた人に向かって「あのおっちゃん、頭禿げてる」と言ったり、不細工な女の子に「君、どうしてそんなに不細工なの?」などと言って女の子から殴られたことがあった。これも彼の「障害」だったのだ。
サブ顧問の先生に言われて康祐は思った。
「(それならば一言言ってくれてもよかったのに)」
そう思っても後の祭りであった。これは何をしても許してくれそうにない。
さて、そう思った康祐は何をしたか?
「申し訳ございません」
と言うや否や柔道場の入り口で土下座をしたのである。
実は、康祐にとって土下座をすることは何も珍しいことではなかった。---と言うよりは、土下座は康祐にとって、どんな問題も解決してくれる最終兵器であり、一種の芸術でもあった。
康祐は、精神を患って以来、どこの学校へ転勤しても人間関係を結ぶことができずに虐められてきた。そして、覚えた芸当が土下座だったのだ。
土下座は、既に弥生時代から存在していた。邪馬台国で有名な「魏志倭人伝」にも下戸が大人に道で会えば、土下座をしていたことが記されている。
その土下座の名手だと自認していた。
この学校は康祐にとって五校目の学校であるが、どこの学校でも孝三は土下座を繰り返してきた、所謂「土下座ティーチャー」だったのだ。
しかし、かの講師の先生は甘くなかった。そんなことでは許してくれなかった。
「私は、そんなことして欲しかったんじゃないんですよ。行動で示してほしかったんです」
「はい。申し訳ございません。うちには知的障害の嫁さんを抱えてまして、その上、母が癌なんです」
「それはもう何万回も聞きました」
信仰が強かったわけではないが、日曜日には教会へ行かなければならないことは一言も言わなかった。教会にだけは迷惑をかけたくなかったのである。
仕方なく康祐は、その週は土日の練習にも顔を出した。
そして、日曜日。かの講師の先生と職員室で二人だけになった。
「実は、私、精神病で今から薬を飲ませてもらいます」
そう言って康祐は薬袋から常備薬を出した。その日に飲む常備薬の味は苦かった。勿論、好き好んで薬を飲んでいるわけではないので、苦いのは当たり前だ。しかし、獣のような鋭さで病気を隠してきた康祐である。これで病気のことが白実の下にさらされると思うと、ことさらに苦く感じたのだ。
勿論、その講師の先生は、康祐が精神を病んでいることを知らなかった。康祐が病気をひた隠しにしていたからであるが、あまりにも大量の薬を飲んだので、驚いて言った。
「そうだったんですか。そんなに薬を飲んでいたんですか。知らなくて失礼なことを言いました」
「実は、僕はこれを飲んでないと幻覚を見たりや幻聴が聴こえたりするんです」
「ええ?それは本当に知りませんでした。本当に失礼なことを言ってすみません」
やっと許してくれた。
しかし、時既に遅しであった。
康祐は主治医に診断書を書いてもらい、半年間の病気療養に入ることが決まっていたのだった。
病気療養のことは校長も納得済みであった。
「診断書を持ってきて脅すようなら休んでくれた方がええわ」
が校長の答えであった。
康祐は脅したつもりなど全くない。しかし、気の弱い校長にはそう映ったのだろう。
最低である。
この校長は自分の弱さを悟られまいと空威張りしながら校長の座に登りつめたのだ。本当に強い人間ならば自分の弱さなんか臆面もなく出せるはずだ。
パウロは「私は大いに自分の弱さを誇ろう」と言っている。否、それどころか「弱さ以外に誇るものはない」とまで言い切っている。どんな迫害にも屈しなかったパウロの強さは、この言葉で裏打ちされる。
しかしこの校長は診断書を見て、康祐が校長を「脅している」と受け取っていたのだ。本当に理解のある上司ならば、少なくとも病気に同情するくらいの太っ腹でなくてはならないのに---。
一年生の担任が終わり、柔道部のことで土下座をし、康祐は久しぶりに行きつけの心療内科を訪れた。この医者は、康祐が広汎性発達障害であることを突き止めた医者である。精神疾患の奥に隠れた本当の康祐の病気の原因を探し当てたのだ。
そう言えば、康祐は体育や工作が苦手であった。しかし、好きなことにはとことん打ち込むことができた。
幼少の頃からピアノを習い、一日五時間もピアノの前に座っていた。また、大学時代から武道を初め、合計六段の腕前を持っているが、特に合気道などは三か月でマスターしてしまった。また、英語と韓国語が自由に操れ、カタコトならロシア語やドイツ語も話せる。 それらも、ほんの半年で身に付けた。
しかし自分の興味関心のないことには全く力が発揮出来ず、体育や図画工作などはずっと成績が2であった。ピアノの前では五時間も粘ることができたが、プラモデルなんかは完成させたためしがなかった。だから、少年時代、康祐の部屋の押し入れは作りかけのプラモデルの山がガラクタと化して積み上げられていたのだ。
また、人間関係を築くのは大の苦手で、幼少の頃はいつも虐められていた。
それらも、広汎性発達障害ということを考えると容易に理解できる。
因みに、エジソンやビル=ゲイツ、アインシュタインなどもこの障害を抱えていたと言われている。しかし、彼らはほんの少しの成功例にしか過ぎない。大半の者は障害を抱えながら康祐のように世間に埋没してしまっているのだ。
さて、口髭を蓄えたその医者は休職することにゴーサインを出した。
こうして、五校目の学校での初めての休職に入った。
*
康祐は洋子に学校を休職することを告げて、洋子は実家に帰った。
康祐も実家に帰った。
そして康祐は、金曜日に実家近くの空手道場に通って体力を維持し、土曜日には洋子とともに大阪のアパートに帰り、逢瀬を楽しんだ。勿論、その楽しみ方と言うのは尋常ではなかった。
先ず、洋子にベールをかぶせて、柱に縛り上げた後、罵声を浴びせながら事に及ぶのである。
洋子は、既にこのような康祐の性癖に慣れてしまい、警察を呼ぶようなことはなくなった。
しかし、康祐の洋子に対する愛情表現は完全に屈折しており、狂っていた。
「お前、しょっちゅう仕事休む俺なんか嫌になったやろ。こんな人と結婚するのでなかったと言ってみろ。この売女め。モスクワへ行ったらなあ、お前のような売女が一回百ドルで身を売ってるんや。乞食もいっぱい居る。もう俺なんか嫌になったと言ってみろ」
「私、そんなこと言うた?」
まだ洋子には知性の一かけらは残っているようであった。反発する所はきっちりと反発できていた。
そして、その年の六月に康祐の母が亡くなった。膵臓癌であった。
実は、康祐にピアノを教えたのもキリスト教の教えを教えたのも、この母であった。母は音楽の教師をしていたので、子供達にピアノを教えようと、まだ当時の田舎では珍しかったピアノを買い入れ、康祐に教えたのだった。また、子供の頃から康祐はなぜか宗教に興味を持ち、仏壇で般若心経をサンスクリット語で唱えたりする「変な子」でもあった。だから、クリスチャンであり、心配した母親は康祐を教会へ連れて行った。
しかし、康祐はそれに反発して音大には行かず、また、宗教遍歴を重ねてきた過去があった。来岩現正法に入ったのも、宗教遍歴の結果であり、精神疾患の発症も来岩現正法のためであった。ただし、この頃にはまだ幻覚や幻聴は起こってなかった。康祐が幻覚や幻聴にさいなまれるようになるのはアフガンから帰国してからのことである。ただ、薬で幻聴や幻覚は抑えることができていたので、そのことが周りの教師に発覚することはなかった。ただし、いつも「何者かに操られている」という強迫観念は消えなかった。
臨終の床で康祐は意識のなくなった母に暴言を浴びせた。
「早よくたばれ、このババアが。俺なんか産みやがって」
枕元で康祐の罵声を聞きながら、康祐の母は亡くなっていった。 兄弟達はこの康祐の態度にあからさまに眉をひそめていた。
(まだいじめははじまらないよ。これからだよ)
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