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縁側に腰を下ろせば、目前には腕の良い庭師の施した枯山水が見渡せた。夏の終わりの涼やかな風が程よく吹き込み、戦で疲れた頭と身体には心地良い空間である。
「……して、今度は何だ」
「貴方に少しばかりお願いがございます。というより、相談かな……」
隣に腰掛け、宵君に酌をしながら朱の色男は肩を竦めた。あぁ、この顔は女絡みの相談かと宵君は察し、にやりと口角を上げる。
「女の扱いなど、自力で何とかなろう」
「否、それが……公主のことなのですが」
「あのませたお姫がどうかしたか」
「宵殿、誰が聞いているとも……」
「構わぬ。近頃の公主といえば政のたぐいは私に任せきりで、其方と歌詠みや説法にふけるばかり。信心深きはご立派なことだが、其方とて暇ではあるまい」
「……えぇ、実は相談というのも、そのことで」
苦笑いを浮かべ、暁光は酒を煽った。宵君はそういうことか、と伏目で笑い、権威のある御方に気に入られるというのも時には難儀なものだな、と呟く。
「其方は気に入られているのだから一言きっぱりと申し上げればよかろう。其方の言を公主は無下にできぬゆえ」
「申し上げたところその、『いっそこの暁光を婿に娶れるのなら、稀代の名君となろうとすら思うのに』と……お戯れが過ぎると申し上げたのですが、斯様な冗談があるかと泣かれてしまいました」
「……公主はまだ御年十二。それも皇家の気高き血を宿す御方よ。いくら白爪家が嫡流の当主とはいえ、武家の男との恋路が実るお立場ではない。公主とて左様なことは解り切っておられる。余程、其方に心を寄せているご様子」
一方的に命を下せば済むものを、あえて独り言のように乞われては、良心が痛むのも無理はない。如何したものかと途方に暮れる暁光を見かね、宵君は苦笑を返した。
「相わかった。私から公主に申しておこう」
「かたじけのうございます」
「何、其方は私の義弟も同然。捨て置くわけもなしに。それに、私もそう長くはないゆえ、公主には政の一から百までを早う覚えて頂かねばならん」
「……やはり、病状は芳しくありませんか」
酒瓶を傾ける手を止め、暁光は先程までよりいくらか厳かな声を漏らす。そんな暁光にどこか諦観の伺える笑みを寄越し、宵君はまぁな、と呟いた。
「此の世に治す術がないのでは、西洋の医学に精通した堕們といえど如何しようもあるまい。堕們は稀に見る名医ゆえ、父君はあれを私にあてがったが」
表情を曇らす暁光を余所に、当の宵君は随分と楽観的である。暁光は、幼少の砌より幾度も病に臥してきた宵殿にとっては、不治の病といわれても、今更大したことではないのかもしれぬ、と気を取りなおした。
「……時に暁光よ。私は明日、隣国の皇帝に、此度の戦の沙汰について談義する為に拝謁仕るのだが、供に『鯨』を貸してはくれぬか」
「……鯨一郎を?」
「左様。清高と頼鹿は、先の戦の功への褒美のうちひとつとして生家に顔を見せたいと申し、差し迫る戦もないゆえそのようにした」
「成程、喜んで。鯨一郎にはすぐ、明日の支度をするよう申し付けましょう」
暁光の返事に礼を述べ、宵君はさて、と腰を上げた。
「そろそろお暇する。其方が酔っ払って私に甘える姿など、この家の者に見られでもしたら大事よ。公主の件は承知した。鯨にはよしなに伝えてくれ」
「御意。道中暗うなって参りました、供の者をつけさせます」
門扉までお見送りしよう、と宵君の背中を追い、暁光は道すがら家人に宵君が「鯨」と呼ぶ男への言伝を頼んだ。
青桐鯨一郎という男は呆れるほど生真面目な性分で、宵君より三つ、暁光より十ばかり歳は上である。宵君も暁光も、幼い頃から鯨一郎の説教を受けながら育ったのだが、存外あの小うるさい鯨一郎の文句を聞くのはやぶさかでないのだった。
宵君は、鯨一郎のその恵まれた体躯とかけて「鯨」と呼びからかうことを好む。その度に鯨一郎は呆れたような顔をして、「私が鯨なれば、宵殿はさながら鮫にございまするな。いつの日か私の横腹に咬みつき、食い千切ってしまわれる」 と言い返すのだ。
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