1. ものは試しと言うけども

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 午後の数学の時間、うとうととしながら窓の外へ目を向けると、3年生の男子が体育で野球をやっていた。このなかにあの先輩もいるんだなぁとぼんやりと授業の様子を眺める。  小柄で細身の猫のような男はどこか。見慣れたようで気づかない。進んだ板書を映してはグラウンドへ目を向けることを繰り返した。  重い瞼と意識があるのか分からないほどの眠気に、先生の声が途切れ途切れに聞こえる。おまけに開けられた窓から流れ込んでくる生暖かい風が余計に眠気を誘った。  ――あ、いた。  周りから冷やかされながらバッターの位置についたのは紛れもない先輩だった。薄目を開いてその様子を眺める。  白の半そでの体育着からは華奢な腕が伸びている。折れそうな腕でバッドを持てば、やけに重そうに見えた。ハーフパンツから覗く足も、どこか頼りなさげに見える。  相変わらず誰彼構わず、へらへらと笑顔を振りまいている先輩に、味方チームも敵チームも声援というよりはヤジを飛ばしていた。  まぁ運動音痴なんてあの場に立つだけでチームへの申し訳なさで死にそうになるからな。俺もそれはよくわかる。  ピッチャーの投げた最初の球は、先輩の膝に見事に当たった。よけきれずに痛みに悶絶する先輩に周りがどっと笑う。ピッチャーが慌てて先輩に手を合わせていた。  その後ひとしきり唸っていた先輩は、二打目を地面に叩きつけるようなヘンテコな打ち方でなんとか打った。「お、おぉー」と微妙な歓声が上がるのも束の間、明らかに間に合わないであろう1塁へのダッシュを促す声が上がる。  あ、下手じゃん。なんて思ったその数秒後には、俺は目を見開いていた。 「えっ」  ワッと歓声がここまで聞こえてくる。  一塁ベースを踏み、清々しい笑顔で味方に手を振る先輩は勝ち誇った顔をしていた。 「何かわからないところでもあったか、久世谷」 「あ、いや…大丈夫です」  思わず上げた声は思いのほか大きかったらしい。黒板に向かっていた先生が振り返って聞く。起きているクラスメイトが一斉に俺を見た。引きつった顔で首を横に振れば、何事もなかったように授業が再開される。近い席の何人かが俺に目配せして笑った。  もう一度グラウンドに目を向ければ、目を離している隙にゲームが進んだのか、先輩は2塁にいた。  おちゃらけた笑顔を浮かべる先輩に目を凝らす。あんなバンビみたいな足をしておきながら、とんでもない足の速さだった。何が運動音痴だよ、と頭の中で毒づくが、よくよく考えてみればあの人は運動音痴だなんて言っていない。  球技は駄目だとか、なんたら。ようするにその他はできるのか?  クッソなんだこの敗北感。  たいていの男は顔の良しあしの前に運動ができるかどうかがカーストに直結するんだ。高校生なんてまだそんなもの。俺なんて50m走8秒いけばいいほうなんだぞ。  心の内で嫉妬に燃えていれば、椅子を引く音で意識を戻された。慌てて立ち上がり礼をする。グラウンドに視線を戻せば、とっくに集合した生徒たちがおのおの校舎に向かっているところだった。 「くせたにーお前さっき見てたっしょ?」 「うん?」  号令後、ぼーっとしていたら、後ろの席の瀬戸が肩を掴んでにやにやしながら言った。寝ぼけた目で後ろを振り返れば、瀬戸はグラウンドを指さして、やけに自身気な顔で言ったのだった。 「あの人、陸部の先輩」  あの人…?どの人…? 「お前陸部だったの?」 「え、嘘でしょ。一年一緒にいてそれ知らなかったの?お前流石だな…。てかほら、最近よく一緒にいんじゃん、藤崎先輩。久世谷よく何も言わずにどっか消えるけど、藤崎先輩とお昼食べてんの?」  ほぅ。  藤崎先輩。  へらりと笑う先輩の顔が浮かんだ。  藤崎……   「いや、知らねぇ人だし」 「あっはマジ?あの人メンクイで有名だからなぁ。食われないように気をつけろよ」  ………ほぅ。  瀬戸が笑いながら俺の背中をバンバン叩く。  なんだか弱みでも握ったような気分だ。にやけそうになるのを堪えながら瀬戸に向かった。 「瀬戸、ちょっと教えてほしいんだけど」 「…な、なに、珍しい」  ぐいと顔を近づけると、瀬戸が小さく顎を引いた。
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