ケース10 神楽坂さんの決意(後編)

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ケース10 神楽坂さんの決意(後編)

神楽坂さんは逮捕されて警察署に連行されてしまった。同時に僕も神楽坂さんの共犯者として事情聴取を受けていた。狭い取調室で強面の刑事さんに睨まれながら質問される。 「どうしてこんなことをした」 「確かに強引なことがあったかもしれませんが、犬が危険だったので止むを得ず仕方がなかったんです」 「犬?」 「渡部さんは犬を自宅に一週間放置していると知った神楽坂さんはその犬を助ける為にとった行動です。こうしている間にも犬が危険です。早く動物病院に連れて行かないと」 「分かった。部屋に犬がいるか、確認させる。だが、どんなに理由があろうとしていいことと悪いことがある。それは理解できるな?」 「はい」 「犬飼くん。どうして君は彼女を止めなかった。それだけでも犯罪になることもある。車でも同じだ。運転した本人が飲酒運転で捕まったとしても同乗者にも責任が問われる」 「はい。神楽坂さんを止められなかったのは僕の責任です。あの、神楽坂さんはどうなっているんでしょうか」 「今はなんとも言えないが、おそらく何かの罪には問われるだろう」 「そんな。神楽坂さんはただ動物の命を守る行動をしたのにそれが罪に問われるなんて納得できません」  その時だった。取調室が開き、一人の刑事が入ってきた。刑事同士でこそこそ喋り、僕に言った。 「釈放だ」 「へ?」  警察署のロビーに向かうと神楽坂さんがソファーに腰がけていた。 「あ、犬くん」 「神楽坂さん大丈夫でしたか?」 「えぇ」と神楽坂さんは小さく返事をした。 「あの、これはどういうことですか」 「さぁ、私にもさっぱり。でも、助けられたことには違いないわね」 「助けられた? 誰に?」 「こんなことができるのはあの人しかいないわね」 「あの人?」 「成田教授よ」  確かに。考えられるとしたら成田教授しか考えられなかった。ともあれ、僕たちはなんとか苦難を乗り越えたことは違いない。感謝する限りだった。  あれからどうやって帰ったのか覚えていない。少なからず、僕たちは前科もなく何事もなく帰れた。  動物で金儲けをしたり、動物の命を粗末にするような連中に許せないところはあったが、もう関わることはないだろう。一つ、大きな傷を負ったと言えば神楽坂さんの憧れだったアニマルカンパニーに裏切られたことだろうか。現実を知った時は裏切られた気分になったに違いない。憧れは所詮、憧れのままでいた方が幸せだったということだろうか。 そしてあの一件の後、神楽坂さんは一週間、研究室に顔を出すことはなかった。余程、神楽坂さんは精神的なダメージが大きかったのか、電話やメッセージを送ったりしたが、返事が返ってくることはなかった。物足りない毎日を僕は過ごしている。 一人で研究室に居ても虚しいだけだった。いや、正確に言えば、忍くんや負け犬くんなど研究室には飼育している動物がいるので一人とは言い難いが、それでも神楽坂さんが居ないだけで寂しかった。今頃、神楽坂さんは何をしているだろうか。少なくとも動物のことを考えているのだろうか。いや、神楽坂さんから動物を取り上げたら何も残らない。動物だけが彼女の生きがいなのだから。それなのにどうして研究室に顔を見せないのだろうか。また僕のことを『犬くん』と呼んで弄ってほしい。いつの間にか神楽坂さんの前ではドM体質になってしまったが、それは僕が自ら望んでいる。 会いたい。 神楽坂さんにもう一度会いたい。 心が病んでしまっても動物のことは嫌いにならないでほしい。 またいつものように動物に関する知識を得意げに話してほしい。 そんな日常が僕は好きだ。壊れたくない。壊したくない。元の神楽坂さんをもう一度。 そう、願えばまた研究室の扉が開いて姿を見せてくれる気がした。 でも、それは僕の妄想だった。 いつでも神楽坂さんが来てもいいように部屋の掃除は怠らない。飼育している動物たちのゲージ内の清掃から餌やりまでこなす。床やテーブルの上まで塵一つないように念入りに掃除を施した。いつでも迎え入れられる。そんな状態に来るかどうかも分からない人を待つ僕は虚しかった。 孤独の中、僕はいつの間にか深い眠りに付いていた。 暗闇の中、ガタガタという物音で意識を取り戻す。薄眼を開けながら目を覚ます。最初に目に映ったのは白い天井だった。ここはどこだろうか。自宅ではない。 そうだ。確か、研究室の掃除をしていたらいつの間にか眠っていたんだ。疲れが溜まっていたのかもしれない。視線を部屋に戻すと誰かの後ろ姿が映った。黒いパーカーにフードを被ってよく見えない。もしかして。 「か、神楽坂さん! 帰ってきたんですね」  思わず、上体を起こして飛び起きた。僕の声に驚いたのか、その人は振り向いた。  しかし、その人物は神楽坂さんではない。若い男だった。見たことがない顔だ。そもそも何故、研究室にいるのだろうか。ここは一般生徒の立ち入りを禁止されている。扉の前にも立ち入り禁止札を掲示されている。無断侵入だろうか。男は苦しい表情をしている。その手には何か持っている。あれはハムスターの忍くんだ。  目が合った瞬間、男は部屋から逃げ出した。まさかの事態だった。忍くんが攫われてしまった。 「ま、待て」  寝ぼけながらも僕は眠い身体にムチを打って研究室を飛び出した。  廊下を走ると危険だが、犯人に逃げられる訳にはいかない。  階段を二段飛ばしで駆け下りる男。下を覗き込むともう一階まで降り切っていた。このままでは逃げられる。遅れながらも僕は下まで降りて廊下を見渡す。どこへ消えた?  ガラス扉から外に出られてしまえばどこに逃げたか分からなくなってしまう。  だが、ガラス扉から出るとその男は尻餅をしてその場から動けずにいた。目の前に誰かいる。あれはもしかして。 「神楽坂さん!」  そう、間違いない。あれは神楽坂さんだ。 「犬くん?」 「神楽坂さん。そいつ、忍くんを連れ去った犯人です」 「あぁ、道理でハムスター臭いと思ったわ」 「畜生! そこを退け! こいつがどうなってもいいのか」  男は忍くんを盾にその場から逃げようとする。忍くんを掴むその右手の握力はだんだん強まっているようで忍くんは苦しそうに「チュー」と鳴いている。 「その子を放しなさい」 「じゃ、そこを退け」  神楽坂さんは道を空けた。男は通った。だが、神楽坂さんとすれ違いの瞬間に男の手首を強く握った。 「い、イテテテ!」 「約束が違うじゃない。忍くんは返してもらうわよ」  男の手から忍くんが放れた隙に神楽坂さんは奪い取った。  忍くんの誘拐は神楽坂さんの手によって防がれた。  その後、男は校内の警備員に引き渡された。  この男、校内にも不法侵入をしていたことが後から判明する。目的は動物の窃盗だ。珍しい動物を奪い取るつもりだったらしいが、僕に見つかったことにより咄嗟にハムスターを持って逃げたという。残念ながら研究室には高値のある動物はいない。それにハムスターも値段で言えば数百円の価値なので奪うだけ損である。無計画な男の哀れな犯行だった。だが、神楽坂さんにとって動物の価値は値段ではない。一緒に過ごした日々が大きな価値に変わるという。  話は逸れてしまったが、どうして神楽坂さんは一週間も姿を見せなかったのか聞いたところこのように返ってきた。 「あぁ、それはトラブル対応よ。以前の依頼が不祥事だったみたいで対応していたのよ」 「そうだったんですか。なら何で相談してくれなかったんですか」 「私が勝手に招いたことに犬くんを巻き込むのは可哀想じゃない。だから単独で解決していたのよ」 「納得できません。僕は神楽坂さんの助手です。どんなトラブルだろうと僕に相談してください。パートナーってそういうものでしょ」 「犬くん……」 「今度、自分で対応するような真似をしたら怒りますよ」 「……ごめん。気をつけるね」  少し驚いたように間を置いた後、神楽坂さんは笑顔で言った。その笑顔に僕はドキッとした。 「どうしたの? 顔、赤いよ?」 「な、何でもありません。ほっといて下さい」 「まだ怒っているの? ごめんってば」 「もう、怒っていません。てか、初めから怒っていませんから」 「本当に?」 「はい。本当です」 「なら良かった。じゃ、改めてよろしくね。犬くん」  神楽坂さんは手を差し出した。 「はい。こちらこそ。よろしくお願いします。神楽坂さん」  その手を僕は握り返した。 「そうだ。犬くん。この機会に一つ報告があります。聞いてくれる?」 「はい。何ですか?」 「私、夢が一つ出来ました。この世から不幸な動物を一匹でも多く減らしたい。その為に神楽坂動物相談所の活動を世に広めたい。今は大学生で規模は小さいけど、卒業したら独立して会社として運営したいの。どうかな?」 「神楽坂さんなら出来ますよ。良い目標だと思います。僕も応援しています」 「嫌だ」 「え?」 「応援じゃなくて一緒にやりたい。犬くんと」 「僕とですか?」 「うん。ダメかな?」 「勿論、良いに決まっているじゃないですか。僕で良ければお願いします」 「良かった。断られたらどうしようかと思った。よし、これから大変だ。頑張らなきゃ」  神楽坂さんはガッツポーズをした。  ここからまた再スタートだ。僕と神楽坂さんの物語はこれからも続く。  動物のことなら何でもおまかせ。動物好きの神楽坂さんがどんな悩みや相談だろうと解決してくれるだろう。僕はただ、神楽坂さんのサポートをするだけだ。 「犬くん。そうと決まれば今日も早速、動物実験よ!」 「はい。神楽坂さん」           〜完〜
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