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ケース3 多頭飼育崩壊
「犬くん。どうなっているのよ」
神楽坂さんは朝からそのように声を荒げながら僕に迫ってくる。
「どうしたんですか。神楽坂さん」
「せっかくホームページを作ったのに全然依頼が来ないじゃない。これじゃ全然活躍出来ないじゃないのよ」
神楽坂さんがホームページ上で『神楽坂動物相談所』というものを立ち上げたのはいいものの更新のない日々が続いていた。それに対し、神楽坂さんは不安を漏らしている訳だ。
「僕に言われても知らないですよ」
「犬くんは私の助手でしょ。顧客を集めるのも助手の仕事よ。なんとかしなさい」
「無茶言わないで下さいよ。それに僕は助手になることは承諾していないです」
「あら、そう。犬くんは助手をやりたくないと。なら仕方がないわね。私が一人でやるしかないか。残念だな。あーあ、ガッカリだよ」
神楽坂さんは棒読みで呆れるように言った。これは何かの作戦なのだろうか。いや、何か企んでいることは間違いない。それでも黙って見守っていると神楽坂さんは睨んだ。
「分かりました。助手をやらせて下さい。お願いします」
「本当に? 悪いわね。そんなつもりなかったのに」
そんなつもりしかない。だが、神楽坂さん一人だとトラブルを起こすのは見えている。理解者である僕が見守っていないと何をするか分からない。なんたって神楽坂さんは動物が好きでも人とのコミュニケーションはとれないのだ。時に思わぬ発言で怒らせることだってありえる。そこを僕がフォローしなくてはならない。
「さて。犬くん。ホームページをどのようにすればいいか考えましょうか」
謎の会議が始まってしまった。議題は依頼をしたくなるホームページ作りである。そもそも素人二人が話し合ったところで至難であることは言うまでもない。
「犬くん。なんでもいいから意見を言ってくれるかな」
僕はホームページをじっくり見て考える。
「字が多過ぎませんか?」
「字?」
「はい。少し字が難しい気がします。例えば『動物のことなら何でもお任せ下さい。犬や猫など身近な動物から珍しい動物まで不安や相談に乗ります。お気軽にメールや電話でご応募下さいませ』という文章なんですが、少し堅苦しくありませんか? ここはもう少しフランクに分かりやすい文章の方がいいと思います。後、背景ですけど白過ぎる気がします。せっかくなら動物相談所ですので動物をモチーフにした背景の方がいいかと思い……ます」
神楽坂さんの熱い視線に言葉が止まってしまった。気を悪くしてしまったのではないかと焦った次の瞬間である。神楽坂さんは僕の右手を両手で握られた。
「犬くん。凄いわ。的確な意見をありがとう。そうよね。文章が硬すぎるとは思ったけどやっぱり他人から見たら読む気無くすわよね」
「あの、神楽坂さん。手」
「あぁ、ごめんなさい」
パッと神楽坂さんは手を放した。むしろそのまま握っていてくれた方が良かったが、そんなことは今の僕の立場では言えるはずもない。
「そうと決まれば早速、編集するわよ」
することが決まれば神楽坂さんはすぐに行動に出る。キーボードをピアノのように滑らかに叩く姿は楽しんでいるようであった。
編集が始まってから一時間が経たない頃に神楽坂さんは大きく息を吐き出してパソコンから離れた。
「終わったわ。犬くん。確認よろしく」
「はい。では拝見します」
背景は動物の足跡が使われており色も華やかだった。それに文章もシンプルで読みやすい。これならホームページを見てくれた人の目が止まることは間違いない。
「はい。良いと思います。これなら顧客も増えると思いますよ」
「本当? これで顧客が増えなかったら犬くんのせいだからね」
「責任を押し付けないで下さい。でも、多分依頼は来ると思いますからしばらく待ちましょう」
「さて、一仕事片付いたことだし、実験を始めましょうか」
「あの、そこは休憩をしましょうというところではないのですか?」
「何を言っているの。実験も休憩のようなものでしょ」
全然違う。でも神楽坂さんにとって休憩は実験と同類のようである。しかし、僕は意見を言っただけで大した仕事はしていない。一番仕事をしているのは神楽坂さんだ。動物のことになると目がないところは神楽坂さんの強みだ。
さて、今日はどのような実験をするのだろうか。
「さて、犬くん。唐突だけど、キマイラってご存知かしら?」
「キマイラって確か、ライオンの頭と山羊の胴体に毒蛇の尻尾を持つって言う空想上の生き物のことですか?」
「あら、知っているのね。キマイラは生物学的にはキメラとも言うんだけど、同一の個体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっているそのような状態の個体を指します。嵌合体ともいい、平たく言うと異質体って言うわ」
「それがどうしたんですか?」
「そのキマイラだけど、将来的には作り出すことが出来るって知っているかしら」
「キマイラを? 一体どうやってそんなことするんですか?」
「そもそも異なる個体を同一にする実験は現在では成功しているのよ」
「そうなんですか。一体どうやって」
「主にその動物のことをハーフという。人間でも日本人と外国人の子供はハーフになるでしょ。それと同じことをするのよ」
「いや、それは同じ人間だから可能であって異なる種族で子供が出来るんですか? そもそもどうやって交尾するんですか」
「実例があるから実際見て見ましょうか。例えばこの写真。なんだか分かる?」
神楽坂さんはスマホの写真を見せつける。
「シマウマ? いや、でも少し違うような」
「これはロバシマ。母親がシマウマで父親がロバから生まれたハーフ」
「どちらも馬といえば馬ですけど、こんなことって起こるんですね」
「まだあるわよ。今度はこの写真。ライガー。母親がトラで父親がライオンのハーフね」
「これは違和感がありませんね」
「どんどん行くわよ。ヤギ+ヒツジのヤギヒツジ。イノシシ+ブタのイノシシブタ。ヨーロッパバイソン+ウシのザブロン。ペキンアヒル+のバリケンのマラード。グリズリー+ホッキョクグマのピズリー。リャマ+ヒトコブラクダのキャマ。あと、他にもあったわね」
神楽坂さんは楽しくなったのか、ハーフ動物特集に熱を持った。こうなるとどこかで止めないと永遠に続きそうだった。
「あの、神楽坂さん。もう充分です。それより今日の実験の内容はどのようなものですか?」
「そうだったわね。写真を見てもらった通り、低い確率だけど似たような種類の動物は子供が出来ることが分かる。今回はそれにちなんだ実験よ」
「まさか、種類の違う動物を交尾させるつもりですか?」
「そのまさかよ」
「一体、どのような動物を用意したんですか?」
「ふふふ、それは、ね」と神楽坂さんは不敵な笑みを浮かべながら布が被ったゲージを持ってきた。一体何が現れるのか、僕はそわそわした。
「まずはこの子。負け犬くん」
出てきたのは以前、動物の恋愛実験で使用したオスネズミこと負け犬くんだ。またしてもお前か、と再会を喜ぶべきか悲しむべきか悩ましいところだった。
「対するお相手さんはジャジャーン。メスのハムちゃんです」
神楽坂さんはハムスターを見せた。まさかこの二匹で交尾させようというのだろうか。確かに同じネズミだが、果たして成功するのだろうか。初めての試みなので不安しかない。その前に本当にするのだろうか。
神楽坂さんは負け犬くんのゲージにメスのハムちゃんを入れた。ネズミとハムスターの夢の対面である。最初、お互いを見つめ合い降着が続いた。すると、負け犬くんはゲージの隅に逃げ出した。ここでも負け犬くんは負け犬である。なんだか情けなく思ってしまう。
「まぁ、最初はこんなものね。しばらく様子を見ましょう。この続きはまた後日ってことで」
「そうですね」
実験とは言い難いがこればかりは長い目で見る必要がある。
ピロンとパソコンから通知が届く。
「まさか」と神楽坂さんは一目散にパソコンに駆け寄り、中身を確認する。
「犬くん。仕事よ」
「まさか、依頼が来たんですか?」
「そのまさかよ。さぁ、忙しくなるわよ」
後日、僕と神楽坂さんは依頼主と面談するべく喫茶店に来ていた。
「初めまして。神楽坂動物相談所の所長、神楽坂鈴蘭です。本日はご依頼頂き、ありがとうございます。お力になれるように努めますのでどうかよろしくお願いします」
お決まりの自己紹介と名刺を差し出し、挨拶を済ませる。僕も挨拶を済ませ、神楽坂さんの横で腰を下ろす。
対して、依頼主の男性はぶっきら棒で僕たちを鋭い目で睨んでくる。
今回の依頼主さんは鬼沢悠次郎さん(五十一歳)だ。見た目は昭和の頑固親父といったところで顔が濃く建築の職人をしているそうだ。だが、初対面で早くもピンチだった。
依頼した相手が大学生ということに機嫌を損ねている様子だった。以前もそうだったがやはり若いというだけで信用が難しいということを知った。
「お姉ちゃん。本当に信用できるんだろうね?」
「私、そんなに信用ありませんか?」
「ないね。大体、依頼者と会うのになんだ。その格好は」
僕も神楽坂さんも普段大学で着てくるようなラフな格好を指摘された。
「格好よりも私は一つでもお客様の問題を解決することが先決だと考えます」
「ほう、俺の依頼を解決できると?」
「勿論でございます」
「もし出来なかったらどうする?」
「そうなれば依頼料は無料にさせて頂きます」
「緩いな。出来なかったら迷惑料を払ってもらうのが筋と違うか?」
この人の言うことは無茶苦茶だった。当たりたくない客に当たってしまった。僕は立場を忘れて身を乗り出しそうになったその時だ。
「分かりました。時間は掛かるかもしれませんが必ず解決します」
「か、神楽坂さん?」
「大丈夫よ。犬くん」
「言いよったな。二ヶ月や。二ヶ月待ってやる。もし過ぎたら分かっているやろうな?」
「はい。お任せください」
話はとんでもない方向に向かっていく。このような時の為に僕がいるのにこれではただいるだけになってしまう。
「ちょっと席を外してもいいですか」
僕は依頼主に許可を得て神楽坂さんを店の外に連れ出した。
「犬くん。なんのつもりかな」
「それはこっちのセリフです。あの人からの依頼は断りましょう」
「どうして?」
「どうしてと言われましてももし解決が出来なかったら迷惑料を払わないといけないとか馬鹿げています。それにあの人はクレーマーの常習犯かもしれませんよ」
「そんなの分からないじゃない。それにあの人も困っている。困っている人をほっとく事も出来ないじゃない」
「しかし、二ヶ月以内に解決出来なかったらどうするつもりですか?」
「その時はその時よ。まぁ、私に任せなさい。動物絡みなら解決してみせるから」
神楽坂さんは凛々しい顔で席に戻っていく。僕は無謀にしか見えなかった。今回の依頼を聞いただけで気が参るような内容だったからだ。
後日、僕と神楽坂さんは依頼者の鬼沢さん宅にお邪魔していた。二階建ての持ち家で妻と高校生の子供二人と暮らしている極普通の家庭である。
今回の問題はこの家にはない。トラブルが起きているのは鬼沢家の隣接した家である。
「どうじゃ、神楽坂さんとやら。家にいても隣から匂いがするだろう」
「えぇ、香ばしい獣の匂いがしますね」
「もう何年もこの匂いが続いている。家族も気が参っている。家に帰るのが嫌になるくらいにな。こうして家も買ってしまった訳だし、ローンもまだ残っているから引っ越しも出来ない。これが一生続くとなれば最悪だ。家族が快適に過ごす為にはどうして欲しいか分かるよな?」
「えぇ、承知しております。ご主人さんはお隣と話し合いはされていないんですか?」
「勿論したさ。だが、一向に言うことを聞いちゃくれない。それに隣の奥さんは嫌いだ。話が合わない。今では顔も合わせようとしない」
このご主人ですら手を焼くとは一体どのような人なのか。とにかく厄介なことは間違いない。
「事情は分かりました。まず状況を把握してから対応をさせて頂きます。経過状況などは随時報告させて頂きます」
「あぁ、頼むよ。別に立退けとは言わない。匂いさえどうにかしてくれたらいい。それだけだ」
「承知致しました。では、またお願いします」
鬼沢家を出て隣の前で立ち止まる。
隣も普通の一軒家で外観は特に普通である。しかし、家の周りには雑草が伸び放題で何より獣臭い。新聞やチラシはポストに溜まって溢れている。まるで何年も人の出入りがないような感じだ。それに獣臭さで気分が悪くなる。
「ここが問題の家ね。さて、行くわよ」
神楽坂さんはインターフォンを鳴らした。そもそも人がいるのかどうかも疑わしい。三十秒が経過した後に「はい」と小さく女性が返事をした。どうやら人はいるようだ。
「初めまして。私、神楽坂動物相談所の神楽坂鈴蘭と申します。お隣の鬼沢さんからご依頼を受けて参りました。少しだけ出てきてもらえないでしょうか」
「……結構です。失礼します」
インターホォンは切れた。それに対し、神楽坂さんは再度ボタンを二回鳴らす。
「あの、なんですか」と女性は怪訝そうに答える。
「お話を聞かせてください。あなたもこのままじゃいけないと思っているはずです。私はほっとけません。腹を割って話し合いをしましょう。出てくるまでずっとここにいます」
神楽坂さんの発言の後、しばらく無言が続いた。
するとインターホォンから「少しお待ちください」と返ってきた。
「よし」と神楽坂さんはガッツポーズした。神楽坂さんの強い主張に心が折れたようだ。
こういう時の神楽坂さんは頼りになる。僕だったら心が折れて帰っているだろう。
しばらくするとドアが開き、五十代くらいの女性が姿を見せた。皺が寄っていて老けたように見える。
「初めまして。神楽坂鈴蘭です。そしてこっちは助手の犬くんです」
「犬飼です」
女性はお辞儀をした。
「突然押しかけて申し訳ありません。出てきてくれたってことは話し合いに応じたってことでよろしいですか?」
「話すのはいいけど、家の中に入るのは辞めといた方がいいよ」
「何匹いるんですか?」
「さぁ、何匹いるんだろうね」
「奥様は一人でここに暮らしているんですか?」
「そうだよ」
「失礼かもしれないですけど、ご家族は?」
「主人は五年前に亡くなったよ。息子はいるけど、今は家庭を持って別で暮らしているよ」
「そうですか。奥様、お名前を聞いてもいいですか?」
「小早川千穂」
「小早川さん。家の中を一度拝見させてもらえませんか?」
「あなた、私の話を聞いていたかい。入るのは勘弁しておくれ」
「そういう訳にもいきません。現実を教えてください」
「ここではダメですか?」
「必ずお力になれると約束します。だから中に入れてください」
神楽坂さんは必死に訴えた。身振り手振りもその必死さが伝わってくるが、隣で聞いている立場として不安しかない。正直、僕は中に入りたくない。外から漂う異臭は尋常ではないものだ。それでも僕は神楽坂さんと進むしかない。
「そうですね。ここで話すより実際に見た方が早いかもしれませんね。どうぞ」
小早川さんは中に誘導した。
玄関にお邪魔すると異様の光景と強い刺激臭に驚かされた。玄関には大量の猫たちが出迎えた。猫の鳴き声が鳴り止まない。この時点で十匹以上いる。更に猫の糞や尿が廊下に散乱している。刺激臭の原因はこれだ。思わず鼻を摘んでしまった。だが、神楽坂さんはこの光景を見ても平然としている。平気な訳がない。きっと無理をしているんだ。それでも神楽坂さんは態度には出さなかった。僕も見習わなくてはと心に決める。
「靴のままでいいのでどうぞお上りください」
小早川さんはスリッパでリビングの方へ進んでいる。僕と神楽坂さんは土足で中に入る。リビングに入ると僕は更に驚かされることになる。
猫、猫、猫、猫、猫とフローリング一面に猫がいるのだ。まるで猫の絨毯のようである。それだけではないソファーの上や棚の上、時には押入れの中にまで猫がいるのだ。足の踏み場がないほど猫で埋め尽くされている。まるで街中の猫が災害で避難所として集まってきたみたいだ。
「猫屋敷ね」と神楽坂さんは冷静に呟く。
「いや、度を超えていますよ。こんなところに住める訳ないですよ」
「住んでいるけど」と家主である小早川さんは不服そうに呟く。とっさに言ってしまった発言に僕はすぐに謝罪した。なんて無神経なことを言ってしまったのだろうか。
「まぁ、事実だし人間が住むのは厳しいよ」
「小早川さん。この家には何匹の猫がいるんですか?」
「六十二……いや、六十五匹だったかな」
「そんなにいるんですか」と僕は思わず大きな声で言ってしまった。次の瞬間、周辺にいた猫は僕から逃げ出す。まるで満員電車に無理やり乗り込むように猫は僕から避けていく。
「犬くん。いくら犬でも猫に威嚇したらダメじゃない。猫は犬が苦手なんだから」
「すみません。いや、僕は犬だから威嚇した訳じゃありません」
ニャーニャーニャーと逃げた猫たちは一斉に神楽坂さんに集まった。肩に乗り、腕にも入ってきて神楽坂さんは倒れこんだ。仰向けになった神楽坂さんは猫で埋まり、完全に姿が見えなくなった。
「か、神楽坂さん。大丈夫ですか」
僕はすぐに救助に動いた。するとムクッと神楽坂さんは上半身を起こした。
「か、神楽坂さん?」
「何よ。せっかく戯れていたのに邪魔しないでよ」
「戯れていたんですか? 僕には襲われているとしか見えなかったんですけど」
「ふぅー。楽しかった」
そう言って神楽坂さんは立ち上がった。
「小早川さん。どうしてこんなに猫を飼っているのか、いや、どうしてこんなに猫が増えたのか教えてくれませんか?」
先程までの和んでいた雰囲気とは違い、真面目な口調で神楽坂さんは問う。
「最初は一匹のメス猫から始まりました」
小早川さんは経緯を話してくれた。
当時、旦那が他界し一人になってしまった小早川さんは一人暮らしが可哀想だと思い、息子さんが子猫をプレゼントしたのが事の発端だった。新しい家族が増えて喜んだ小早川さんはその子猫にハナと名付けた。メス猫ということもあり、女の子らしい名前にしたようだ。しかし数ヶ月したある日、ハナは妊娠したのだ。どうやら外でオスの野良猫としてきたらしい。当初、ハナは去勢手術を行なっていなかった。しかし出来てしまったことに後戻りはできずそのまま出産。一気に五匹の子猫が家族に加わった。息子から貰った大切な猫の子供なので愛着も湧き大切に育てた。去勢手術は頭に過ぎっていたが、どうしても猫たちに痛い思いをさせたくないと先送りにしてしまった。だが、数ヶ月後に生まれた猫同士で妊娠が発覚。そのまま出産し、更に猫は増えた。流石にまずいと思ったがどうしても猫を他人に譲ることができなかった。小早川さんは猫を愛していたからだ。だが、そうこうしているうちにピラミッド型のように猫は増え続けた。結果、現在の猫の数は六十三匹まで増えていった。最初の去勢手術を躊躇した結果だった。
「最初の子猫が二年前。そして現在が六十三匹。恐ろしい繁殖力ね」
「神楽坂さん。猫って生まれてからすぐに妊娠できるんですか?」
「猫の繁殖力を侮ってはダメよ。猫っていうのは生まれて早ければ四、五ヶ月で妊娠し、一回で五匹前後出産が可能よ。そして一年に二回は出産することが出来る。一組のカップルから無限に繁殖するわ。半年にメスが五匹ずつ出産すると仮定して計算すると一年間で六十五匹が増える計算ね」
「そ、そんなに増えるんですか?」
「当たり前じゃない。初めの五匹の子猫は可愛いなって済むけど、子猫と思っていたらいつの間にか妊娠し、あれよこれよと子猫が増えて気がついたらどうにでもならない状況になっている。これを多頭飼育崩壊という」
「多頭飼育崩壊ですか」
「見ての通り、この家はその現象が起こっている」
小早川さんは後ろめたいようにそっぽを向いていた。事実を突きつけられて目が合わせられないようだ。
「本来、猫というのは飼いやすい動物でね。餌代とトイレの砂さえ用意してあげればそれで済むのよ。犬と違って芸を教えたり散歩に連れていく必要がないからね」
神楽坂さんは犬という単語を強調させるように僕を見つめる。まるで僕は芸を教えたり散歩に連れていく必要があって手間がかかるとでも言いたいようだ。
「しかし、これだけの数の猫を飼うとなれば当然、餌代もトイレの砂代も負担になるはず。小早川さん、月に猫だけでいくら掛かるんですか?」
「十万円くらいです」
「じ、十万円?」と僕は声を荒げる。
それだけあれば充分に一人暮らしが出来る。一人分に値する金額がこの猫達に消えるとなればとんでもない話だ。
「小早川さん。あなたは働いているようには見えないですけど、そのお金の出所はどこからですか?」
「生前の主人の財産です。今はそれを切り崩しながら生活をしています」
「そうですか。今はなんとか食い繋いでいけているという感じですね。でも、いつまでその生活を続けていくつもりですか? 財産はいくらあるか知りませんが、それは無限にはありません。いつかきっと底がついてくるのは事実。それにさっき猫達と戯れて気づいたのですが、妊娠しているメス猫も何匹かいました。これ以上増えるとしたら餌代も更に上乗せになります。文字通り、多頭飼育崩壊まっしぐらですよ。いや、むしろなっています」
「…………」
「黙っていないで答えてください。どうするつもりですか。小早川さん」
「神楽坂さん。あんまり熱くならないで下さい。小早川さんも言われなくても分かっているはずです。だからそんなに責めないであげて下さい」
僕は神楽坂さんの腕を掴んで静止させる。
「犬くんは小早川さんが可哀想だと思って私を止めたの?」
「そうですけど」
「甘えないでくれる? 可哀想なのは小早川さんじゃない。ここにいる猫達よ。猫達に罪はない。本来動物というのは制欲本能というのがある。それは絶滅を回避するための必要な本能よ。動物達は何も悪くない。悪いのは目の前で増えていくのを眺めていた飼い主。これは飼い主のエゴ。飼い主の無知の慢心が引き起こしたもの。責められて当然の報い」
神楽坂さんの発言で小早川さんは膝を床に付けて涙を流した。自分の行いを実感したのだ。僕と神楽坂さんは泣き止むまで見守った。
「ごめんなさい。どこかで止めなきゃいけないと思っていたんだけど、どうすることもできなくて。増えていくのが怖くなってきたの。もうどうしていいか分からなくて」
ようやく小早川さんは本心を口にした。神楽坂さんはそっと背中を摩る。
「大丈夫。その為に私が来たんですから。方法はあります。一つは自治体や保健所に引き取ってもらうこと。但しここでは里親を探してもらえますが、見つからなかったら殺処分もあり得ます。もう一つは知り合いに飼ってもらうこと。これは顔が広い人じゃないと難しいと思います」
「私にはそんな知り合いはいません」
「でしたら方法は自治体や保健所の引き渡しになりますね」
「この子達は殺されるんですか?」
「それは分かりません。でも視野に入れといた方がいいかもしれませんね」
「そんな」
「私たちの知り合いにも里親になってもらえるか声をかけてみます。引き渡すという決断をして下さい」
小早川さんは視線を下げたままだった。歯ぎしりをして深く考えている様子だった。しばらく無言が続いた後、ついに口を開く。
「一ヶ月待ってもらえませんか?」
「一ヶ月?」
「せめてこの子達と最後に暮らしたいです。だからお願いします。もう少しだけこの子たちと居させて下さい」
「分かりました。一ヶ月待ちましょう。手続きもそれくらい掛かると思いますので」
「ありがとうございます」
「でも、一ヶ月後には強制で猫を連れて行きます。いいですね?」
「はい。分かりました」
「その前にこの家の掃除をしましょう。本来猫というのは綺麗好きの動物です。これだけ汚れていると猫にとって害になります」
「分かりました。私もやります」
「決まりね。犬くん! バケツに水を汲んできて。それとゴミ袋を大量に持ってきて」
「は、はい。ただいま」
こうして僕と神楽坂さんは猫屋敷を掃除することになった。特に匂いがつく糞や尿を充填的に清掃した。
「小早川さんは普段、どこで寝ていたんですか?」と、神楽坂さんは質問した。
「二階です。階段には猫が入れないようにバリケードをしていますので」
「なるほど。一階を完全に猫のスペースにしていたんですか。トイレ、風呂、台所と必要な部分はどうしていたんですか?」
「食事は基本外食で済ませます。トイレや風呂も銭湯でなんとかしています」
「見る限り完全に猫に占拠された家ですね。これでも人間が住むには難しいですね」
猫を押しのけて掃除機をかける。猫は僕から逃げ回るように部屋から出て行く。掃除をする身としては助かる限りだ。猫の抜け毛が一面に広がっているので面白いように掃除機に吸い込まれていく。臭いの元になるものは全て片付けた。綺麗になった部屋を見て一呼吸おく。しばらく時間が経ってあることに気が付いた。
そういえば、さっきから神楽坂さんの姿が見えない。どこに行ったのだろうか。家の中にいなかったので庭を捜索すると蛇口の近くに猫と一緒にいる神楽坂さんを見つけた。
「神楽坂さん。何をしているんですか?」
「猫をお風呂に入れてあげているのよ。猫は綺麗好きだからね。半年に一回くらいは入れてあげた方がいいんだけど、おそらくここの猫は生まれてから一度も入ってなさそうね」
神楽坂さんは一度に五匹ずつ猫の体を洗っていた。本来猫は水が嫌いで暴れるものだが、何故か神楽坂さんが洗っていると猫は大人しく洗われている。動物を落ち着かせる力があるのだろうか。いや、あるんだった。
「それより犬くん。家の中の掃除は終わったの?」
「はい。ある程度は綺麗になりました」
「そう、後で確認に行くから」
「僕も手伝いましょうか?」
「犬のあなたに洗われたら猫達のトラウマになるでしょ。ここは私一人で大丈夫だから庭の雑草でも抜いていなさい」
サラッと神楽坂さんは僕に対して冷たい発言をする。気が沈み、仕方がなく僕は雑草を抜く。僕も神楽坂さんも手を休めることなくそれぞれの仕事をこなし、無事に清掃作業が終了したのは始めてから五時間後のことだった。
「ふぅ、なんとか終わったわね」
神楽坂さんは額の汗を袖で拭いながら言った。流石に疲れたのは僕も同じである。
「本当にありがとうございました。一人だったらここまで出来ませんでした」
小早川さんはペコペコと頭を下げる。
「いえ、当然のことをやったまでです。これで猫ちゃん達も少しは住みやすくなって何よりです」
「はい。この度はお手数おかけしました」
「小早川さん。約束は一ヶ月後です。その時は全ての猫を回収します。手数料等は掛かると思いますが、今後に掛かる猫の費用よりかは抑えられると思いますので資金の準備はお願いします」
「はい。分かりました。あの、一匹だけでも残すことは出来ませんか? 私には猫が全てなんです」
「お言葉を返すようですが、小早川さん。あなたに猫を飼う資格はありません。その結果がこれです。これを機に猫から離れた生活を送ってみてはどうでしょうか?」
「どうしても……ですか?」
「はい。せめてもの猶予として一ヶ月待つんです。この意味をしっかりと理解して下さい」
「分かりました。神楽坂さん。犬飼さん。どうもありがとうございました」
再び小早川さんは頭を下げた。
「はい。ではまた一ヶ月後に来ますので宜しくお願いします。失礼します」
僕と神楽坂さんはお辞儀をして猫屋敷を出た。
キィィと門扉を閉めた瞬間、神楽坂さんは大きく息を吐いた。
「ふぅ」
「神楽坂さん。大丈夫ですか?」
気を利かせ、僕は声をかける。
「えぇ、問題はないわ」
「あの奥さん、大丈夫ですかね?」
「さぁ、奥さんはどうでもいいけど、猫が気がかりね」
神楽坂さんは動物には甘いが人間に対しては厳しかった。
「どうして一ヶ月も待つんですか?」
「むしろ、一ヶ月しか待っていないというべきだわ。自治体や保健所を動かすのは手続きが必要で時間も掛かるのよ。それにある程度、里親候補も確保しておかないとスムーズ事が運ばない。色々大変なのよ」
「そうなんですか。もしかしてそれらのことは全て神楽坂さんがやるんですか?」
「私もやれることはやるけど、勿論協力者を通じてやるわよ」
「協力者?」
「成田教授よ」
「前から思っていたんですけど、成田教授って何者なんですか?」
「おっと、いけない。依頼主の鬼沢さんに依頼の経過報告をしなくては! 犬くんは今日ここまでで大丈夫よ。後日バイト代は渡すから帰っていいわよ」
「え、でも」
言いかけた時、神楽坂さんは既に鬼沢さんの家に上がり込んでいた。まんまと振り切られてしまった。
それから一ヶ月後のことだった。約束通り、僕と神楽坂さんは小早川さんのお宅に訪問する為、道中を歩いていた。
「神楽坂さん。里親はどうなったんですか?」
「残念ながら三十件ほどしか確保できなかったわ」
「三十件? 凄いですね」
「全然凄くないわよ。猫の数と比べたらまだまだ少ない」
「でも、どうやってそんな数の里親を見つけたんですか?」
「これも殆ど……いや、全部成田教授が見つけてくれたわよ。私は生憎、人間の知り合いはいないから」
成田教授の人脈はどうなっているのだろうか。細かい追求は以前回避されてしまったので今回はしないようにしようと心に決める。
「しかし、残りの猫はどうなるんですか?」
「自治体や保健所が引き取ってくれるように話はついたわ。ただ、その先に里親が見つかるのか運になるわね」
「もし、見つからなかったら?」
「まぁ、その時は殺処分になると思うわ。可哀想だけど、飼育代が掛かるならそういう道になる」
「そうですか。里親、見つかるといいですね」
「えぇ」
そうこう話しているうちに問題の猫屋敷に到着した。
その付近には以前にも増して獣の匂いが充満していた。庭の雑草も一ヶ月で伸び放題になっており、あれだけ綺麗にしたとは思えないくらいに元通りである。神楽坂さんは門の前で棒立ちになっている。
インターフォンを鳴らし、しばらく待った。二回、三回と鳴らしても小早川さんは出てくる気配がなかった。
「あれ? 留守ですかね? また出直しましょうか」と、僕は神楽坂さんに意見を求める。
「嫌な予感がするわね」
「え? 何ですか?」
「溢れんばかりのこの匂いは確かに猫だけど、違う」
「違う?」
「死臭よ」
「死臭ってまさか」
と、神楽坂さんは門のノブに手を伸ばし、敷地内に入った。
「ちょ、神楽坂さん。無断で入るのは流石にまずいですよ」
それでも神楽坂さんは止まらず、ドアノブに手を伸ばす。僕も後ろに付いていく形になる。
「ダメね。鍵が掛かっている」
「帰りましょう。こんなところを誰かに見つかったら通報されますよ」
「庭の方からは入れないかしら」
神楽坂さんは庭に向かう。こうなってしまったら神楽坂さんを止める術はない。
庭に回るとどこも鍵が掛かっている。おまけにカーテンまでしているので中の様子が分からない。
「不味いわね」
「神楽坂さん、どうしたんですか?」
僕は神楽坂さんの視線の先を見る。カーテンの内側に所々、血が付着していた。こんな血は以前来た時はあっただろうか。
神楽坂さんはガラス越しを覗く。すると神楽坂さんは庭に置いてあったスコップを手に持ち大きく振りかざし、ガラス窓に向かって叩きつけた。その勢いでガラスは粉々になる。
「か、神楽坂さん。何をやっているんですか。器物損害ですよ?」
神楽坂さんは割った窓から鍵を開けて中に入った。おまけに住居不法侵入だ。追いかけるように僕も部屋の中に入る。
「神楽坂さん。待ってくださいよ」
閲覧注意。心臓の弱い方やグロい光景が苦手な方は今すぐ引き返して下さい。
僕と神楽坂さんが目の当たりにしたのは猫の死骸の山だった。頭部だけのもの、骨だけのもの、毛皮だけのもの、腹が引き裂かれたものなど、様々な形の猫の死骸が床一面に広がっており、飛び散った血が床や壁に付着していた。まさに地獄絵図のような光景である。
「変な匂いと鳴き声が聞こえないと思ったらやっぱりそういうことだったのね。犬くん、生き残りの猫がいないか家中を探して。早く!」
「は、はい」
猫の死骸を踏まないように跨ぎながら家の中を探す。廊下、トイレ、風呂にも猫の死骸だらけだ。吐きそうだった。それでも僕は生き残りの猫を探した。
「神楽坂さん。居ました。こっちに来て下さい」
「どこ?」
すぐに神楽坂さんはある部屋にきた。そこには部屋の隅で弱々しく震える血だらけの猫の姿があった。掠れるような声でニャーと鳴いている。
神楽坂さんはその猫を抱き寄せた。その胸の中でも猫の震えは止まることがなかった。
「怖かったね。もう、大丈夫だから」
神楽坂さんは猫を励ますように背中を撫でだ。
「神楽坂さん。一体何があったんでしょうか」
「おそらく置き去りね」
「置き去りですか?」
「家主は家の全ての出入り口を封鎖して逃亡した。するとどうなるかしら」
その先は恐ろしくて言えなかった。それを察し、神楽坂さんは続ける。
「家から脱出できなくなった猫たちは餌を求める。家の中に残っていた餌を食べ尽くした後は生き残る為に共食いを始めるのよ。動物なら当然する行為。まず、ターゲットになったのは妊娠した母猫や力が弱い子猫たち。肉と血でなんとか生き残った猫たち同士も共食い戦争で戦うことになる。それは猫屋敷から脱出するまで続く。徐々に力尽きる猫は餌になり、最終的に残ったのはこの子」
「強い猫ってことですか?」
「確かに強くないとこの環境では生きていられない。生き残れても地獄だったはずよ」
「どうしてこんなことに」
家の中を一通り探した結果、小早川さんの姿はなく生き残った猫は三匹だけだった。
神楽坂さんは生き残った猫に向かって大粒の涙を流した。見てはいけないものを見てしまったが、今回ばかりは悲しい気持ちになるのも無理はない。
「許せない。猫にこんな想いをさせる人がいることに怒りを感じるわ」
「神楽坂さん。落ち着いて下さい。気を悪くしないで」
「どうして犬くんは平然としていられるの?」
「僕は神楽坂さんが悲しむ姿を見たくなかった。いつも堂々として活発で元気な姿が好きです。だから、もう泣かないで下さい」
「ふん。大きなお世話よ。今日くらい泣かせてよ、バカ犬」
「はい。存分に泣いてください」
神楽坂さんは僕の前で涙が枯れるまで泣いた。僕はそっと目を閉じた。
その後、警察に通報して猫の置き去りが発覚した。小早川さんは行方を眩まし、全国で指名手配させることになる。メディアでも報道され、猫好きの世間から数多くの批判は殺到することになった。一時トップニュースになるが、後日近所の通報で犯人の小早川さんは逮捕されたことを報道された。
研究室を訪れた時、神楽坂さんの背中が視界に入った。少し気まずい中、背中に向かって声をかける。
「神楽坂さん。おはようございます」
「あら、犬くん。おはよう」
いつもと変わらず、神楽坂さんは犬くんと呼んでくれる。変な気まずさは僕の勘違いだったようだ。
「良いところに来たわね。ビッグニュースよ。こっち来て」
手招きではなく、両手を二回叩いて僕を呼ぶ。だから僕は犬じゃないと! と思いながら近寄る。
「ジャジャーン! ハムネズミくんです」
神楽坂さんは小動物を僕に見せつけた。ネズミ? ハムスター?
「これってもしかして」
「そうよ。以前、ハムスターと負け犬くんで交尾させて作ったハーフの子よ」
「成功したんですか。凄い。ハムネズミくんということは雄ですか?」
「それがまだ分からないのよ。今後成長したら分かると思うわよ」
「そうですか。では実験は成功ですね」
「そうね。まだ尻尾とか生えていないから今後どのように成長するか楽しみね。あぁ、可愛いな。チューチュー」
神楽坂さんがおかしくなっていた。しかし、動物のハーフ実験は無事成功したが、この二日後にハムネズミくんは死んでしまい、成長の観察はできなくなってしまった。
それを見届けていた神楽坂さんは元気が無くなった。動物が死んだ日の神楽坂さんは機嫌が悪い。出来るだけ関わらないようにしたかった。
要は自分のペットとして飼った動物が死んだら神楽坂さんは立ち直れない。平等に愛したいものあるし、終わりを迎えるのが辛い。そんな理由で神楽坂さんはペットを飼わない。それでも動物を愛する神楽坂さんは求めるように動物と触れ合うことを怠らない。
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