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ケース4 ハムハム捜索隊
朝、大学校内にある研究室の扉付近に来た時だった。この部屋は一般の生徒が出入りを禁止されている部屋で僕と神楽坂さんは特別な許可を得て出入りが許されている。普段は誰も居らず、居たとしても神楽坂さんだけだ。しかし、今日は何故か扉の中から声が聞こえる。電気も扉の隙間から漏れているので誰かいるのは明白だ。一体、中で何が起きているのだろうか。僕は恐れながら扉をノックする。
「誰? 犬くん?」
神楽坂さんの声だった。それにしては中で複数人の声が聞こえる。
「入ります」
僕は勢いよく扉を開けた。すると部屋には神楽坂さん一人しかいなかった。
「なんだ。犬くんじゃない。どうしたの? そんなに慌てて」
「あの、今部屋に誰かいませんでしたか?」
「いや、私一人だけど」
「そんなはずは。だってさっき神楽坂さんの声以外にも聞こえましたし」
「声? あぁ、これのこと?」
神楽坂さんが見せたのはスマートフォンだった。
「さっき動画を見ていたのよ」
「どんな動画を見ていたんですか?」
「えっと、これ、これ。最近ハマっているのよ」
その動画は犬が出てくるだけの日常ものだった。
「最近、増えているのよ。飼い主が自分のペットを動画にしてアップロードしている人。可愛いって人気なのよ」
「なるほど、確かにペットだけしか映していなかったら飼い主のプライバシーも守れるし、視聴者が増えればその分、報告収入も得られるって訳ですか」
「えぇ、ペットの日常を撮るだけだから手間も掛からないし、アップするだけでお金が稼げるなんて飼い主はウハウハね」
「言い方がゲスいですね。神楽坂さん」
「あぁ、そんなことで稼げるなら私もやろうかしら」
「神楽坂さん。ペット飼っていないじゃないですか」
「ここでいつもやっている動物実験を動画にしたら良いじゃない」
「いや、それは色々規制が掛かって通報されると思うのでやめてください」
「冗談よ」
神楽坂さんは僕に対して冗談ばかりなので真相は分からない。しかし、動物実験もテーマとしては面白いが、世間に公にさせると色々問題があるので動画にするのは好ましくない。
「動画といえば僕も見ますよ。ゲーム実況とかマンガ動画とか」
「犬くんと一緒にしないでもらえるかしら」
「す、すみません」
「でも、動画は勉強になるわよね。解りやすいし、時間も掛からないし効率がいいし。と、いうことで今日は実験動画でも視聴しましょうか」
「はい。どんな動画を見るんですか?」
「食べ物に関して勉強しましょう」
「食べ物、ですか?」
「えぇ。動物には与えていいものとダメな食べ物があるのよ。犬で例えてみましょう。犬くんが食べたら中毒を起こす食べ物は何か言ってみて」
質問がおかしい。まるで僕が食べたら中毒を起こす食べ物は何かと言われている気分である。
「犬くん、チョコレートは好きかしら」
「えぇ、大好物です。冬場は特に好んで食べています」
「今すぐ吐き出しなさい。あなたにとってそれは毒よ」
いや、犬にとっては毒だが、人間である僕に害はない。強いて言うなら太りやすいだけである。
「犬にとってチョコレートというのは摂取量で変わるけど早くて一、二時間後、通常で六〜十二時間以内に症状が起こる。落ち着きが無くなったり、吐く、尿失禁、下痢、筋肉の震え、脱水、体温が高くなるなど。悪化すると筋肉の硬直、痙攣、死亡ということが起こります。ここまで良いかな?」
まるで解説動画のように解りやすく神楽坂さんは説明する。最早、動画を見るより神楽坂さんの説明で満足になる。
「さて、犬くん。あなたの為に今後、口にしてはいけない食べ物をおさらいしましょう。先程、言ったチョコレートの他にタマネギ、キシリトール、ナッツ、アボカド、ブドウ、香辛料が挙げられます。以上のものは決して食べないように食生活を改めてください。分かりましたか?」
「あの、神楽坂さん」
「なんでしょう」
「僕、人間なのですが」
「いいえ。あなたは犬です。今後、中毒性があるものが入っていないか食べる前に写真を私に送るように」
神楽坂さんは講師のような口調で言った。この茶番劇はいつまで続くのだろうか。しばらく僕は話に付き合うことにした。
「さて、次に動画を見ながら解説をしていくけど、まず肉食動物と草食動物っているじゃない。じゃ、これらの動物は本当にそれらしか食べないのかっていう動画よ」
動画に出てきたのは野生のノウサギである。その中央には何かの死骸があった。
「これはノウサギが鳥の死骸を食べる光景よ。普段、草食動物であるノウサギも冬になると摂取する餌が無くなり、生きる為にエネルギー効率の良い動物性たんぱく質を摂取することもあるのよ」
死骸を食べるシーンをわざわざ解説する神楽坂さんだが、あまりにも閲覧的に問題があるので動画はむしろ邪魔をしている気がした。
「逆に肉食動物も草や木のみを食べることもあるのよ。胸焼けするような時は草を食べて消化を制限する。でも、基本、肉食動物の歯は肉を切り裂く為に有効だけど、草を磨り潰すような働きは出来ないから肉食動物は肉を食べることが効果的なのよ。逆に草食動物も歯の形状は肉食動物に比べて逆だからやはり草食動物は草や木のみを食べることが効果的」
「なるほど。勉強になります。あ、でも気になることがあるんですが」
「何かしら」
「ジャイアントパンダって草食動物なのですか? クマって普通肉食動物だと思うんですけど」
「良い質問ね。ジャイアントパンダは笹や竹を食べているイメージで草食動物と見られがちね。私も気になって調べたことがあるんだけど、ジャイアントパンダって元は肉食動物なのよ。だから好んで笹や竹を食べている訳じゃないのよ」
「そうなんですか。じゃ、なんでそんなイメージなったんでしょうか」
「そこが悲しい話になるのよ。一説によるとジャイアントパンダは天敵や餌の競争を避けて中国山岳地帯の奥地を生息の場にした。そこで冬でも枯れずに一年を通して豊富に取れる食物が竹と笹だった。肉食から竹食に変化したと言われているの。でも元は肉食だから消化器官が笹や竹では身体に適していない。一日二十キロも笹を食べても消化できるのは四キロほどととても効率が悪い」
「じゃ、肉を食べたら良いじゃないですか」
「と、思うじゃない。でも竹を食べるようになり、遺伝子が低下したのか遺伝子がなくなり竹を食べるようになったのか分かっていないの。それにジャイアントパンダは肉のたんぱく質を美味しいと感じないの。それならその辺に生えている竹や笹でいいやって考えてしまう訳」
「それで絶滅危惧種と言われているんですね」
「そう、残念ながらジャイアントパンダは他の草食動物のように消化器官が変化できていない。草食動物にもなりきれず、肉食動物にもなりきれず切ない生き物なのよ」
なんとものんびり屋な動物である。人間が世話をしなかったら全滅は免れないだろう。
「さて、食べ物というのは本来その動物に適したものを摂取する必要があるってことが分かったわね。犬くんも自分に適した食べ物を食べないといけないから注意すること」
「神楽坂さん、僕は人間ですから!」
動物の食に関して勉強した後だった。神楽坂さんは難しい表情をしながらパソコンと睨めっこしていた。
「神楽坂さん、どうしたんですか。難しい顔をして」
「ちょっと気になる記事を見つけてね」
パソコンの画面を覗き込むとそこには『神楽坂動物相談所』のホームページの書き込みだった。
「依頼ですか?」
「依頼とまではいかないけど、今ネットである動画が炎上しているって書き込みがあって報告を受けたのよ」
「ある動画ですか?」
「どんな動画かしらね」
神楽坂さんは書き込みがあったURLをクリックして動画画面に飛んだ。その動画は『ハムハム捜索隊』というチャンネル名で飼い主が撮ったハムスターの餌やりのものだった。
「ハムスターですか。可愛いですね」
「えぇ、可愛いけど」
動画を進めるにつれて問題点を発見する。飼い主は蕎麦、豆腐、キュウリなどの食べ物を与えている。時にチーズやトンカツなど高カロリーの食べ物まで与えているのだ。
「人間が口にするような食べ物をハムスターにあげていますね。神楽坂さん。これっていいんですか?」
「本来、ハムスターならハムスター用のペットフードはあるけど、この飼い主は一切そういった類はあげてなさそうね。仮に中毒を引き起こす食べ物も材料に含まれていることがあるから注意が必要ね」
「じゃ、やっぱりダメですよね」
「ダメとは言わないけど、誤ってハムスターが口に入れてしまう可能性が高いという話よ」
「あ、神楽坂さん。この飼い主、炭酸飲料もあげていますよ」
「まぁ、無知の視聴者さんが見たら不安になるのも分かるけど」
「これは一種の虐待ですよ。ね? 神楽坂さん」
「犬くんは私に聞かないと分からないのかな?」
神楽坂さんは少し不機嫌になりながら言う。
「いえ、すみません」
「まぁ、いいわ。虐待かどうかこの人のチャンネル内にある動画をチェックしましょう」
ハムスターの動画を視聴することで色々な問題点を洗い出す。
雑なハムスターの持ち方、耳がないハムスター、雪に埋められるハムスター、変な食事などなど動画内で分かるいくつかのポイントが分かってきた。
ネットではこれらの行為を虐待として炎上し、波紋を呼んでいるそうだ。これは虐待と言われても仕方がないだろう。これを見た神楽坂さんの反応を僕は待つ。
難しい顔で考え込んで一つの結論を出した。
「一犬影に吠揺れば百犬声に吠ゆ」
「それって何かのことわざですか?」
「うん」
意味を教えてくれないので自分でスマホから調べてみた。
一人の人間がいい加減なことを言うと世間の多くがそれを真実として広めてしまうことの例え。一匹の犬が何かの影を見て吠え出すと辺りの百匹の犬がそれにつられて吠え出すという意から。と書かれている。
つまり一人が虐待動画と決めつけて周りがつられて騒いで炎上していると神楽坂さんは言いたいのだろう。
「なんとも言えないわね。でも、調査してみる価値はありそうね」
一体どのように? と聞きたくなったが、その辺の詰めた話は教えてくれないだろうと諦めた。
数日後、僕は神楽坂さんに呼び出されてあるところに向かう為、道中を歩いていた。
「神楽坂さん。今回は依頼なんですか?」
「半分依頼で半分プライベートよ」
意味が分からなかったがそこはあえて聞かないようにしよう。
この日の神楽坂さんは相変わらずパーカーにジーンズというラフな格好をしていた。動物と触れ合う必要がある時は汚れてもいいことと動きやすい服装が鉄則である。動物と触れ合う予定がなくてもその服装のパターンは同じだ。いついかなる時も動物と触れ合うかもしれないということらしい。つまり神楽坂さんの服装は年中無休汚れてもよくて動きやすい服装という訳だ。女性らしくオシャレな服装を見ることはほぼないだろう。それでも神楽坂さんはスタイルが良く綺麗な人なので服装には囚われることはない。
「それで神楽坂さん。これからどこに? 何も聞いていないんですけど」
「犬くんはただついてくればよろしい。確か、この付近にある十四建ての茶色いマンションと聞いたんだけど」
「茶色いマンションってあれのことですか?」
僕は西側にある建物に向かって指を差す。
「あぁ、多分あれのことね。では行きましょうか」
神楽坂さんは前を歩きリードした。
マンションに入り、エレベーターに乗り込む。神楽坂さんは六階のボタンを押した。
エレベーターから降りると六〇三号室の前で立ち止まった。
「ここのようね」
インターフォンを鳴らすとモニターよりも先に扉が開いた。出てきたのは無精髭を生やした五十代くらいのおじさんだった。
「あ、どうも。神楽坂です。今日はよろしくお願いします」と神楽坂さんは頭を下げる。
「あれ? 男も一緒か」
「聞いていなかったのか、おじさんは不服そうに僕を見ながら言う。
「犬飼です。よろしくお願いします」
「まぁ、いいや。上がりな」
「おじゃまします」
何はともあれ僕と神楽坂さんは初対面のおじさんの家に上がり込む。
テーブルのある席に案内されておじさんと向かい合わせになり座る。
「では自己紹介をさせて下さい。私、『神楽坂動物相談所』の所長を務めています。神楽坂鈴蘭と言います。こちらは助手の犬くんです」
「どうも」とおじさんは頭を下げるが僕の犬扱いは完全にスルーだった。
おじさんの名前は細野武(五十三歳)独身。宅配の業務委託で働いている。
今日、細野さんの家に訪れたのは極秘調査の一環だった。今、ネットで炎上しているハムスターの餌やり動画をアップロードしているのはこの人だ。事実確認をする為、現地調査をすると言う訳だ。
「神楽坂さんと言いましたっけ。今日はうちのハムスターをお見せする条件で報酬が貰えると言うのは本当ですかな」
「はい。電話でお話しした通り、お渡しします。ご確認下さい」
神楽坂さんは茶封筒をテーブルの上に差し出した。それを受け取った細野さんは金額を確認する。中には諭吉が二枚入っている。
「確かに。いや、普段ならこんなことはしないんだよ。でも、可愛い女性の声だったから良いかなって思ったからさ。実際、君可愛いね。とても好みだよ」
五十三歳が何言っているんだろうか。神楽坂さんにちょっかいを出すのをやめて頂きたい。神楽坂さんも「そうですか」と冷めた返事をしている。人間嫌いが発症しているに違いない。
話を聞く限り、どうやらハムスターを見せてもらう代わりに報酬を渡すという約束をしていたようだ。お金を払ってまで調査しようとは最早プロである。だが、流石に二十代の女性が一人で五十代の男の家に上がり込むのは怖いと言うことで僕が呼ばれた。そんな流れだろう。
「ちなみに一人暮らしは長いんですか」と、神楽坂さんは聞く。
「そうだね。もう三十年くらいかな? 寂しいものだからハムスターを飼っているんだよ。ハムスター歴は驚異の二十五年。どうだ。凄いだろう」
何をドヤっているのだろうか。聞くだけで虚しい気分になる。僕の将来はこうはなりたくないとつくづく思う。
「そうですか。じゃ、そろそろその自慢のハムスターを見せてもらえませんか?」
「良いだろう。こっちだ。驚くなよ。自分のハムスターたちを!」
ハムスター専用のルームには無数のクリアゲージがいくつも積み重なった状態で並んでいた。それに加え、一匹一つという訳ではなく同じゲージに数匹単位でハムスターがいるのだ。まさにハムスターハウスの山だ。
「一体、何匹のハムスターがいるんですか」と僕は思わず聞く。
「数で言えば百三十だよ」
「そんなに?」
「ハムスターが生き甲斐だからね。困ったものだよ」
細野さんは笑いながら言う。恐ろしい光景だ。
「あ、君。足元、気を付けてハムスターがゲージから脱走しているかもしれないから」
「え?」
僕は足元を確認する。すると股の間にサーッと過ぎ去る小動物が見えた。
「あ、ハム蔵だ。捕まえて」
「え? そんなことを言われましても」
すると、神楽坂さんが素早く捕まえた。
「あら、元気がいい子ね」
神楽坂さんは手の平にハムスターを乗せて指で頭を撫でた。
「ハム蔵はよく脱走するんだ。困ったものだよ」
「細野さん。ちなみにここにいるハムスターの名前は全部決まっているんですか?」
「五十匹くらいは付けているよ。印象に残る子だけね。流石にこの数じゃ、誰が誰だか分からないさ。ははは」
「そうですか。このゲージはどのように分けられているんですか?」
「男子部屋、女子部屋、親子部屋、お爺ちゃん、お婆ちゃんなど種類別で分けているよ」
「なるほど。少し、ゲージの中を見たり触ったりしてもいいですか?」
「構わないよ。でも寝ているハムスターもいるからあまり起こさないようにして下さいね」
「分かりました。失礼します」
神楽坂さんはゲージの上に被せている布をめくって中を確認する。
ゲージ内にはシュレッターにかけた新聞紙が敷かれており、ダンボールで隙間を作り、二段にした作りをしていた。数が多いゲージにはこのような工夫が施されているが、数が少ないゲージには新聞紙をそのまま敷いただけのものがある。
「ハムスターが窮屈に見えますね」と神楽坂さんは言う。
「本当はもっと広いゲージにしてあげたいけど、ウチは狭いからね。狭いなりにより快適に住めるように工夫をしているんだよ」
「そうですか。確かにこれだけのハムスターを一匹一ゲージずつとなれば場所が足らなくなりますね。でもハムスターは縄張り意識が強い動物ですので注意して下さい。特にゴールデンハムスターは一緒のゲージに入れると殴り合いの喧嘩をしますからね。最悪死にますが、ここにはどうやらいないようですね」
「ここにはロノロフスキーとチャイニーズがメインだよ」
何を言っているのか分からないが神楽坂さんは来る前に調べたのか、元々知っていたのか相当ハムスターの知識があるようだ。
「それにしてもこれだけハムスターがいれば世話も大変じゃありませんか?」
「個々なら簡単だけど、この数なら正直大変だよ。でも世話をすることが生き甲斐だから大変とも思わないさ」
「そうですか。動画を見させて頂いたのですが、食事シーンに問題があると言われていますが?」
「あぁ、そのことですか。知識がない人が騒いでいるだけです。自分は先ほども言いましたがハムスターの飼育歴は二十五年。試行錯誤した結果、今の食事スタイルに落ち着いています。知識がない人にどうのこうの言われる筋合いはないんですよ」
「細野さんは何の為にハムスターの動画投稿をしているんですか?」
「言ってしまえばお金ですよ。この子たちも自分の餌代くらいは自分で稼いでもらおうと始めたことです。結果としてまともな餌代になりますからかなりおいしいですよ」
「なるほど。餌は一日に何回もあげているんですか?」
「いえ、一日一回だけです」
「そうですか。今日はまだあげていないんですか?」
「いつも夕方にあげると決めているんです。少し早いですけど、食事シーンでも見ていきますか?」
「えぇ、是非」
誘導尋問するように神楽坂さんは食事を与えるように促した。ついに問題の餌やりを生で見られると少し緊張する。餌を取りに細野さんは部屋から出ていった。
「引っかかるわね」と話しかけているのか呟くように言う。
「何か気になりますか?」
「あの人、かなりハムスターが好きなように見える」
「当たり前じゃないですか。これだけ飼っているんですから嫌いなはずないです」
「そうね。動画のコメントでは虐待と言われているけど、分からなくなってきたわ」
「結果的にただのハムスター好きのおじさんだと思いますよ」
「ハムスター好きは確かだけど、何か引っかかるのよ。何か裏がありそうね」
「裏……ですか?」
「えぇ、もう少し探る必要があるわね」
神楽坂さんは何が引っかかっているのか僕には知る由もなかった。だが、動物好きにしか分からないものがどうやらありそうだ。
しばらくすると細野さんは大量の餌を持って部屋に戻ってきた。
「お待たせ。さて、食事の時間だ」
「細野さん。それは何ですか」と神楽坂さんは指摘する。
「豚の生肉ともやしを和えたものだよ」
「ハムスターって生肉食べられるんですか」と僕は反応する。
「君、勉強不足だな。動物は焼いて肉を食べたりしないだろ。基本生肉さ。それにハムスターは草食動物であり、肉食動物でもあるんだ。肉は好物だよ」
「そ、そうなんですか」
「試しにあげてみるかい」
細野さんに箸と肉を渡される。僕は箸で掴んだ肉をゲージの中に持っていく。無数のハムスターは群がるように肉の前に寄ってきた。肉を受け取ったハムスターはすぐに頬袋に詰め込む。かなりいきがいい。
「ハムスターは仲間に餌を取られないように頬袋に食べ物を蓄える特性がある。たまに入れすぎてオタフクになる子も出てくるんだよ」
「そ、そうなんですか」
多頭の中に食べ物を入れると野生の本能が出ているのか仲間を蹴落とし、餌を掴み取っている。まるでバーゲンセールに燃える主婦たちのようである。
「動画で多頭の中にビスケットを丸ごと与えている動画がありましたが、どういうつもりであげているんですか?」と神楽坂さんは質問した。
「あぁ、あれか。ハムスターもゲージの中で運動不足だと思ってね。一種のスポーツだよ。名付けて『ビスケット争奪戦』さ。このシリーズも人気でね。定期的にやっているんだよ」
「動画の人気を取る為にやっているのであれば今すぐ辞めた方がいいと思います。一つの食べ物を複数のハムスターの中に与えると当然、奪い合いになります。すると無理やり頬袋に詰め込んで口の中を圧迫させますし、餌を持っているハムスターに攻撃してまで奪いますので怪我をする子も出てくると思います。それにビスケットは固形で食べにくく、せめて細かく砕いてからあげる方が効果的だと私は思いますが」
「……考えておくよ」
細野さんは少し不機嫌そうに言った。神楽坂さんの発言で気分を損ねた様子である。
「多頭飼育だと餌を食べている子と食べていない子が出てくると思いますが、どのような対策をしていますか?」
嫌な空気に更に釘を刺すように神楽坂さんの質問は続く。
「あぁ、それなら毎日健康診断はしているよ。一匹ずつ直接見て異変がないか、妊娠してないかなど確認は怠らないよ」
細野さんは実際にゲージからハムスターを取り出し、健康診断を実演して見せた。ハムスターは暴れることはなく手の中で大人しくしている。
「ハムスターは自分の生き甲斐さ。だが、ハムスターの寿命は二、三年と短い。だから何世代にも渡って受け継がられている。この子達で十五代目だよ。何世代にも渡って今のこの子達がいる。いつの間にか自分だけが歳を取ってしまったよ」
「二十五年ですか。その重みがこの子達が引き継がれていると考えると深いですね」
「おぉ、神楽坂さん。分かってくれるかね」
「えぇ、動物というのはそうやって生命を繋いでいくものですから分かりますよ」
険悪なムードから一変、良い感じに落ち着いていた。ハムスター好き同士が心を通じたのかもしれない。
「ところでハムちゃんがさっきから脱走しているみたいですか」と僕は指摘する。隣の部屋の扉から出ていく。それを追い、僕は扉に手を伸ばした時だった。細野さんは僕の手を止めた。
「その部屋に入るな!」
「あ、すみません。でもハムスターが」
「後で捕まえておく」
「そうですか」
鬼の形相で言われ、僕は身を引いてしまう。余程見られてはいけないものがあるに違いない。
「そろそろ帰ったらどうだい。もう、充分楽しめただろう」
「え、でも」
「犬くん。帰りましょう」
神楽坂さんは身を引くように言う。帰りの身支度をして玄関まで移動する。
「細野さん。今日はありがとうございました。また機会があれば見せてください」
「あぁ、いつでもおいで。君はハムスターのことがよく分かっているからいつでも歓迎するよ」
まるで僕はお断りのような言い方である。笑顔で見送られ、笑顔で僕たちは帰った。
帰り道の道中、僕は神楽坂さんに話しかけた。
「ただのハムスター好きのおじさんでしたね」
「そうね」
「でも、神楽坂さん。自腹で調査するって僕では真似できませんよ」
「これは依頼者があってのことよ」
「依頼者いるんですか?」
「犬くんには知る必要のない人よ。でも、ただのハムスター好きのおじさんでしたと報告するには少し違う気がするわね」
「一体どういうことですか?」
「ハムスター好きとは表向きの格好。裏で何か企んでいるわね」
「そんなはずないと思いますけど」
「犬くんが入ろうとして止められた部屋には何があったと思う?」
「さぁ。部屋が汚かったとかアダルトグッズがあったとかじゃないですか? 男の一人暮らしだとそんなところだと思いますけど」
「そんな単純な理由であそこまでムキになるかしら」
「僕だったら赤の他人だったら見られたくないと思いますけど」
「あの部屋の奥に気配を感じたのよ」
「気配ですか?」
「ハムスター以外の動物の気配」
「神楽坂さん、分かるんですか?」
「えぇ、生き物の気配だったら分かるわよ。あれは多分、爬虫類だと思う」
「それってもしかして」
「私の憶測に過ぎないから絶対とは言い切れないけど、あの人はハムスターの飼育動画を上げている裏で餌を作り上げていたかもしれないわね」
「やばいじゃないですか。それが事実だとしたら」
「えぇ、犬くん。戻るわよ」
「はい」
ピンポーンとインターフォンを鳴らすと扉がいきなり開いた。
「ん? 君たちは。どうしたんだい?」と細野さんは怪訝そうに言う。
「ごめんなさい。ちょっと忘れ物をしたみたいで。探してもいいですか?」
「それは構わないけど、何を忘れて……」
「お邪魔します」
神楽坂さんは正確な許可を取らず家の中に入っていく。
「あ、ちょっと」
神楽坂さんはハムスタールームに入り、その奥の扉に手を伸ばした。
「お、おい。そこの部屋はダメだ。入るな!」
僕は細野さんの壁になり、道を塞いだ。神楽坂さん。今のうちですと目で合図を送る。
神楽坂さんは扉を開けて中に入った。
「こ、これは……」
細野さんを押しのけて僕も部屋を確認する。部屋の奥には巨大なイグアナが入ったゲージがあった。神楽坂さんの予想通り、爬虫類がいた。まるで恐竜のようなフォルムをしている。これがこの家の真相である。
「細野さん。これはどういうことですか」
「あーあ、見られちゃったか」と細野さんは頭を抱える。
「ハムスターを餌として繁殖させてイグアナに与えていたんですね」
「餌? なんのことだい」
「惚けないでください。ペットの天敵をわざわざ飼う人はいませんよ。もし飼うとしたら餌用に飼うほかありません。違いますか?」
「見られたなら仕方がない。確かに餌としてイグアナにあげる時はあるが、死んでしまったものや怪我をしてしまったものなど飼える見込みがなくなったハムスターに限るよ。ハムスターは一度に何匹も子供を産むから増え過ぎた分もイグアナの餌として調整しているんだ。処分するにしてもここは住宅街だし、墓を作るのも手間が掛かる。そういった理由でイグアナに与えているだけさ」
細野さんは必死に僕たちに向けて訴えた。だが、理由が理由でもあんまりだ。
「イグアナは増え過ぎたハムスターの調整の為に買っているとのことですが、もし脱走したハムスターがうっかりイグアナと鉢合わせしたらどうするつもりですか」と神楽坂さんは言う。
「勿論、そうならないように見ての通りイグアナのゲージにはしっかり鍵が掛けられている。ハムスターが逃げ出すことがあってもイグアナは手出しできないようにしているから大丈夫さ」
「…………」
神楽坂さんは顎に手を置いて考える素振りをする。
「頼む。このことは黙ってくれ。こんなことが公になれば動画サイトにアップ出来なくなる。そしたらハムスターのエサ代も稼げなくなり、全部イグアナの餌になってしまう」
「なら、イグアナの動画をメインにアップロードしたらいいじゃないですか」
「馬鹿を言うな。それこそ炎上ものだ。だいたいイグアナは可愛くないし、動画の受けが悪い。ハムスターの方がより多く再生回数を稼げる」
「どちらかというとハムスターが好きで動画を上げているというより動画の為にハムスターを飼っているように見えるのですが」と神楽坂さんは指摘した。確かに動画のネタの為にハムスターを飼っているとしたら納得する。
「ち、違う。馬鹿なことを言うな。自分はハムスターを愛しているんだ。動画は二の次で撮っているだけだ。分かるだろう、それくらい」
「過激な餌もハムスター同士で餌の奪い合いをさせるのも話題性の為です。やる必要のないことをわざわざしてハムスターに負担を掛けた結果、弱ったハムスターはイグアナのお腹行きです。その動画がハムスターにとっては重みにしかならないということを気付けないようであれば飼い主失格です。飼育歴二十五年とか飼育の知識が豊富とか関係ありません。あなたにハムスターを飼う資格はありません。二度とハムスターを出汁に使った動画を上げないことをオススメします」
神楽坂さんは言い切った。その清々しい顔はまるで探偵が犯人を暴いたように気持ちいいものであった。
「忘れ物というのは嘘です。このことは依頼主に報告させてもらいます。おそらくこのハムスターたちは保護されると思いますので悪しからず」
「い、依頼主って誰だよ」
「個人情報なので申し上げられませんが、一つだけお伝えするとすれば動物愛護団体の者です。このことが伝わればあなたも罪に問われるかもしれませんね」
「そ、そんな」
「犬くん。帰りましょう」
「はい」
なんとか報告を免れようと細野さんはあの手この手で食い止めようとするが、神楽坂さんに小細工は通じなかった。だって神楽坂さんは人間には興味がないのだからどうなろうと関係ない。
「神楽坂さん。動物愛護団体ってなんですか?」
「主に家庭で飼育されている動物の虐待や遺棄の防止や適正な飼育・取り扱いの普及を推進するための団体で全国的な者からローカルのものまで様々な団体が多数活動しているのよ」
「神楽坂さん。今回その人から依頼されたってことですか?」
「えぇ、まぁね。今回の動画はその組織からもマークされているみたいで代理で調査してほしいと依頼されたのよ。結果は黒だったわね。良い報告が出来そうで何よりだわ」
神楽坂さんの後ろには一体どれほどの人物が繋がっているのか、聞くのが恐ろしかった。いや、それ以前に神楽坂さんの横を普通に歩いている僕の方が恐ろしい。神楽坂さんとはそういう人なのだ。
「そういえば神楽坂さん。さっきからパーカーが動いているように見えるのですが」
「パーカー?」
すると神楽坂さんのパーカーからハムスターが出てきたのだ。おそらく細野さんの家にいた一匹が紛れ込んだのだろうか。
「やらかした。どうしよう。今更、戻るのも気が引けるし」
「神楽坂さんが飼えば良いじゃありませんか」
「はぁ?」
あからさまに神楽坂さんは怪訝そうに言う。
「でも、仕方がない。研究室に持ち帰って世話するか。成田教授に頼めばなんとかしてくれるでしょう」
困った時は安定の成田教授頼りだ。
その後、『ハムハム捜索隊』というチャンネルは削除された。それ以来、動画は上がることもなかった。ちなみにその後のハムスターはどうなったのか知るよりもない。ただ一匹を除いて。
「犬くん、この子の名前を考えましょう」
結局、ハムスターは研究室で飼うことになった。世話は基本的に成田教授がすることになったようだ。
「僕が飼うわけでもないので決められませんよ」
「名前を付ける許可をもらったから付けないとダメよ。ちなみにこの子はオスハムよ」
「じゃ、ハム吉で」
「センスなさすぎる。ハムスターだからハム付ければいいと思っているの?」
「じゃ、神楽坂さんが決めて下さいよ」
「命名するわ。忍くんよ」
「しのぶくん? 名前の由来はなんですか?」
「私のパーカーに忍び込んだから忍くん。いいでしょ」
「はい。いいと思います」
忍くんは研究室のマスコットペットとして賑わせることになる。
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