45人が本棚に入れています
本棚に追加
ケース9 神楽坂さんの決意(前編)
思わぬ事態は突然やってきた。いつものように平凡な大学生活を送っていた矢先、神楽坂さんが現れることでその平凡な日常も一変する。
「犬くん。ちょっと付き合ってくれない?」
当然、付き合うとは交際のことではなく用事に付き合うという意味だ。また何かの雑用や面倒なことに付き合わされるに決まっている。しかし、僕と神楽坂さんは二人きりで新幹線に乗っていた。それはまるで一種のデートのように。
それは何故か、少し時間を遡ってみよう。
遡ること三日前のことだ。
「驚かないで聞いてね。犬くん。招待されたのよ」
「招待? 何の?」
「アニマルカンパニーの新技術の発表会よ」
「それって確か、ペットのお役立ちグッズを手掛けている超大手企業ですよね」
「えぇ。飼い主に嬉しい数々の商品を開発している一流企業。動物を飼っている人なら誰でも知っている会社よ」
アニマルカンパニー株式会社。
ペットに対する便利グッズを開発している会社だ。猫・犬の自動エサやり機。留守の時にペットの様子が分かるペットカメラ。糞の異臭を無くす機能性トイレなど最新の技術を取り組んでペット業界に革命を起こした有名企業だ。名前くらいだったら僕も知っている。
「そこで今回アニマルカンパニーが新技術を公に公表する前に一部の人間に会見をすると言うことで招待されたのよ。これは行くしかないわ」
「招待って誰から?」
「実は成田教授がアニマルカンパニー関係者の知り合いでね。今回、特別に招待してくれたの」
「成田教授ですか。いいですね。楽しんできて下さい」
「何を言っているの。今回、犬くんも招待されているから一緒に行くわよ」
「え? 僕も?」
「ありがたく思いなさい。こんな機会は滅多にないんだから。それに今回の発表は動物業界に革命を起こす最先端技術っていう噂よ」
「最先端技術ですか。それは興味深いですね」
「でしょう! 少し場所は遠いから新幹線で移動になるけど、大丈夫よね?」
「それって神楽坂さんと二人で行くんですか?」
「当たり前じゃない。いや?」
「いえ、行かせてください」
「決まりね。じゃ、三日後に大学前の駅に集合よ」
こうして僕たちは新幹線で移動することになった。
まさか、神楽坂さんとこうして新幹線に乗る日が来るとは思わなかった。いや、ただの移動に過ぎないが、少しでもデート気分になれて幸せだった。
この日はいつもの動き易い服装と違い、白のロングスカートだった。スカートを履いている姿は初めて見た気がする。普段はジーンズばかりだから新鮮だ。本日は大人っぽい姿にうっとりする。
「犬くん。目的地まで二時間も掛かるわ」
「えぇ、そうですね」
「私は二時間、何をすればいいのかしら」
「何をと言われましても」
「何か面白い話をしてくれる?」
「急に言われましても何を話したらいいのか」
「女の子に面白い話の一つも出来ないの?」
そう言われて度肝を抜かれた。男としてここは気の利いたことの一つや二つ言えないでどうする。神楽坂さんの興味の引く話といえばやはり動物か。動物で何かないか。
「そうだ。神楽坂さん。犬の嗅覚って人の一億倍もあるって言われているそうですよ。凄くないですか」
「知っているわよ。犬の情報は約四割が嗅覚から得ていると言われているぐらいだから。でも勘違いしないでほしいのはよく警察犬が匂いで犯人を追うシーンがあるけど、匂いが辿れるのは足元から一メートルがいいところ。遠くの匂いまで嗅ぎ分けられる訳じゃない。最大で三メートルの範囲しか嗅げないの。それに飼い主が別人に変装しても違いが分かるそうよ。最初は少し疑問に感じるけど、匂いを嗅げば一発で分かる。たとえ双子でもその違いは分かるそうよ。当然、犬くんはそこまで説明するつもりだったのよね?」
「えぇ、まぁ」
犬って狭い範囲でしか匂いが分からないとは初耳だ。知らないといえば恥をかくことになる。
「本当に分かっていた?」
神楽坂さんは怪しむように僕を見る。疑いの目だ。
「も、勿論ですよ。犬って凄いですよね。嗅覚は犬が一番優れていますよ」
「やっぱり知らないのか。嗅覚は犬が一番ではないわよ。犬より嗅覚が優れているのはアフリカゾウ。まだまだ勉強が足りないわね。そんなことも知らずに犬をしていたとは犬として失格ね」
神楽坂さんに動物の知識比べをしたところで勝てるはずなかった。それに僕は犬として生きている訳ではないので失格ならありがたい。
人間でありたいと思うが、神楽坂さんは僕に対しては犬でしかないのだ。
その後も結局、神楽坂さんに動物の知識を見せつけられただけで二時間なんてあっという間に過ぎ去っていく。
「やっと着いたわね。座りっぱも案外キツイものね」
神楽坂さんは新幹線を降りると伸びをした。
着いたのは関西のとある一角。高層ビルが立ち並ぶ大都会だ。訪れた場所は、約三百人は入れるホール。受付を済ませると一人の男性が近づいた。
「ひょっとして神楽坂様でしょうか」
スーツを着ており、人当たりが良さそうな三十代くらいの男だ。
「はい。そうですが」
「初めまして。私、アニマルカンパニー社長マネージャーをしています。渡部と申します」
渡部という男は腰を低くして名刺を差し出す。神楽坂さんも自身の名刺を出し、交換した。
「社長マネージャーさんですか。役職はかなり上の方なんですね」
「いえ、いえ。そんなこともありませんよ。どっちかといえば社長のパシリみたいなものです。おっと、これはくれぐれも内緒でお願いします。社長に怒られますからね」
喋ってみると随分気さくな人だった。喋りやすい印象を与える。
「そういえば犬を連れて来るとお伺いしたのですが、外で待たせているんでしょうか」
「いえ、ここにいます」
「ここ?」
「彼が犬くんです」
渡部さんは僕を見るなり唖然としていた。まるで本物の犬かと思ったら人間だったという驚き方をする。一応、僕も挨拶をする。「犬飼です」と。
「犬飼? あぁ、それで犬と。これは失礼。私はてっきり本物の犬が来るのかと思っていましたが、まさか犬の名前をした人間が来るとは思いもしませんでした。なるほど、なるほど」
渡部さんは笑いながら状況を納得した様子だった。そもそもどういう風に伝わっていたのか、僕はその経緯を知らない。また神楽坂さんが適当なことを伝えたに違いない。
「どちらかといえば本物の犬が来てくれた方が好都合でしたが、まぁいいでしょう」
「どういう意味ですか?」と僕は問う。
「今日の発表会を見ればご納得出来ます。どうぞこちらへ。社長がお待ちです」
社長? まさかアニマルカンパニーの社長に会えるのか。これも予定のうちだとしたら神楽坂さんの人脈を疑う。
案内されたのは個室の控え室だった。渡部さんがドアをノックし、部屋の中に入れてくれた。
「どうぞ」
そこにいたのは体格の良い筋肉質のおじさんだった。白髪が生え揃っているが肌艶がよく日焼けなのか肌は黒かった。
「これはどうも。アニマルカンパニー社長の河本です」
「お会いできて光栄です。神楽坂鈴蘭と申します」
握手を交わし、挨拶をする。
「これは、これは、かなりベッピンなお嬢さんだ。ん? そちらの犬顔の方は?」
「あ、初めまして。犬飼です」
「彼は私の助手です。通称、犬くんです」
渡部さんは河本社長に耳打ちをする。
「なるほど。本物の犬が来ると思ったら人間の犬でしたか。これは愉快だ」
河本社長も意味を理解して大笑いだ。
「ところで河本社長。今回の発表会ではどんな商品が発表されるんですか」
と、神楽坂さんは踏み込んだ質問をする。
「今回は凄い商品をいくつも用意している。ここではお伝えできないが、楽しみにして下さい」
当然、この場では伝えられなかった。
挨拶を交わしたところで僕と神楽坂さんは会場に向かった。
「神楽坂さん。社長とはどういう関係なんですか?」
「関係と言われても成田教授の友人がアニマルカンパニーの責任者で社長と近い存在なのよ。それを通じて今回招待されたから直接的な知り合いではないわよ。動物好きと言うのと動物相談所をしていることは伝わっていると思うわ」
「それで犬が来ると勘違いしていたようですけど、どういうことですか?」
「犬も連れてきていいかって聞いたら了承してくれたのよ」
「間際らしい言い方しないで下さい。向こうが勘違いしていたのも納得です」
「私はちゃんと助手の犬も連れていくと言ったわよ」
「それがそもそも違いますから」
今回の経緯は理解できたが、神楽坂さんの言葉足らずには困ったものだった。
「それより一体どんな商品を発表されるんですかね」
「さぁ。でも、これだけ多くの人を呼び込んでの発表会よ。当然、期待できるものであることは間違いなさそうね」
開演十分前。会場には満席になるほど多くの人がいた。周りの人はスーツで真面目そうな面構えなので僕たちが浮いているように見える。メディアの人たちだろうか。カメラやビデオを持っている。この場に居て初めて重大なことがこれから起こることを実感する。
「始まるわよ」
スタッフと見られる人がゲージに入った猫、犬、シマリス、ハムスターといった多種類の動物を会場の中央に運び込まれた。一体何が始まろうとしているのだろうか。
すると、扉から河本社長が現れた。会場に一礼して中央の席に向かう。その間でもカメラのフラッシュが眩しく照らされた。
「ご来場の皆様。本日は遠いところからお越し頂き、誠にありがとうございます。アニマルカンパニー社長の河本です。本日は私から皆様に当社で開発した素晴らしい新技術を発表したいと思います。まずはこちらのスクリーンをご覧ください」
映し出されたのは動物の絵柄がデザインされているモニターである。
「こちらは当社が過去に開発した動物の感情読み取り機です。動物の鳴き声に応じて表情を表示してくれる優れもの。例えば犬が鳴いた時にこの装置を近づけることにより現在の感情を表します」
顔は笑顔のニッコリマークだ。
「現在、この犬はご満悦ということになります。ただ、その商品の欠点は鳴かない動物には効果がないことと表情でしか感情が読み取れないということでした。そこで次に開発したのが動物の翻訳機。ただ、これは楽しい、嬉しい、悲しい、遊んで、眠いなど一言程度の感情です。だが、今回開発したのはそれらを上回る商品。その名も【動物翻訳機MAX】です。まず、ここにいる動物たちで試してみましょう」
動物翻訳機MAXという装置を犬に近づける。すると、赤い点滅と共に『分析中』とモニターに表示された。
パーセントゲージが百%になった時、『分析完了』とモニターに表示されると同時にモニターから声が出る。
『人がいっぱいだな。人間の集会かな。お腹空いたな。餌はまだかな。腹減った』
と、モニターが喋る。
「ご覧の通り、今、この装置はこの犬の思っていることを代弁して喋っています。他の動物にも試してみましょう」
『ここはどこだ。落ち着いて寝れやしない。早く、帰りたい』
『餌。餌はまだか。腹減った』
などと動物の気持ちをモニターが喋った。
「声は動物の体温や鳴き声といった全ての細胞から読み取ったものです。ほぼ、そのままの感情を翻訳できるというわけです」
おぉ! と会場から驚きの声が聞こえる。質問時間に入ると一斉に挙手が上がる。どの質問に対しても河本社長は的確な返しをして会場は更にどよめきが起こる。最後には拍手で会場を包み込んだ。
「神楽坂さん、どうしたんですか?」
発表会中、神楽坂さんはずっと浮かない表情をしていた。あれほど楽しみにしていたはずなのに楽しそうな感じがしなかったのが気になっていた。
「妙なのよね」
「妙……ですか?」
「あの動物翻訳機。機械が翻訳した内容と動物の感情が一致していない。むしろ真逆の感情だった」
「神楽坂さんは会場にいた動物の感情を読み取れたんですか?」
「えぇ。勿論、翻訳はできないけど、少なからず翻訳された内容と感情が一致しないのは確かよ」
「じゃ、あの翻訳機は?」
「確かめる必要があるわね」
そう言って神楽坂さんは社長のいる控え室に向かっていく。
「神楽坂さん。まずいですよ」
「なら、犬くんは待機。待て」
「そういう訳にもいきません」
「なら大人しくついて来なさい」
神楽坂さんは止まらなかった。すぐに社長のいる控え室の前まで来ていた。
扉を開けようとした時、中から話し声が聞こえた。扉を隙間程度に開けて中の様子を伺う。
「いやー社長。良い会見でした。ご苦労様です」
と、社長マネージャーの渡部は言う。その向かい席にいるのは河本社長だ。
「これからグングンと売り上げが上がりそうだな」
「でも、本当にあの翻訳機を売るつもりですか? 装置に予めプログラムされたセリフをランダムに喋らせるだけだと言うのに」
「二千通りのセリフが入れられているんだ。それに動物の言葉なんて分かるかよ。誰も気にしないよ。動物が好きな物好きをターゲットに絞った傑作だ。必ず儲かる」
聞き耳を立てていた僕たちは衝撃の事実を知る。装置そのものに翻訳機能はなくただ入れられたデータをランダムに喋っていただけだった。そんなの動物翻訳機とは言えない。
扉を全開に神楽坂さんは部屋の中に入っていく。
「今の話は本当ですか?」
「だ、誰だ! き、君はさっきの神楽坂様。どうしたんですか。勝手に入ってもらったら困りますよ」と、渡部は神楽坂さんを部屋から追い出そうとする。
「社長。あの商品はデタラメだったんですね」
「困るなぁ。大人のビジネスを邪魔されたら。いくらだ。いくら払えば黙っている」
「いりません。それよりも事実を言ってください。翻訳機ではなくランダムに喋らせる装置だと」
「どうやらどうしてもビジネスの邪魔をしたいらしいな。なら、こっちにも考えがある」
何かのリモコンのボタンを押す。すると黒服の男たちが次々と部屋に入ってきて僕と神楽坂さんを囲んだ。一瞬で取り押さえられて手足を縛られ、目を布で縛られた。
「ちょっとばかし手荒だが、悪く思うなよ」
社長の声が聞こえたのを最後に僕たちはどこかへ連れてかれてしまった。
どうしてこうなってしまったのだろうか。現状を全く理解出来ない僕は頭を抱えるばかりである。
「はは、犬くん。見て。最高よ」
神楽坂さんは馬を乗りこなし、草原を駆け回っている。楽しそうに片手をこちらへ振っている。まるで休日を楽しんでいるように。初心者にしては手慣れたように馬を乗りこなしている。もしかして以前に乗馬を習得したことがあるのだろうか。じゃないとあれほどうまく乗りこなすことはできないだろう。僕も乗ってみたいが落馬が怖くて乗馬の勇気がない。
どういう訳か、黒服に拐われたと思ったら僕たちはどこだか分からない草原で馬の世話をしていた。
かれこれ一週間。毎日、朝から晩まで馬の世話で労働している。過酷な業務にも関わらず、神楽坂さんは疲れた表情は一切見せず、せかせかと働いている。まるで牧場で育ったかのように手慣れた手付きだ。馬に関しての知識もあるようで牧師顔負けだ。
ちなみにこの牧場の管理をしている飯田さんという四十歳の男性の指導の元で働いている。早、一週間。神楽坂さんはすっかり馴染んでいる。突然の環境変化にも関わらずたいしたものである。
なんでこのような目にあっているかといえば、アニマルカンパニーの秘密を知ってしまったことで強制的に働くことになっていた。帰れる条件はアニマルカンパニーの秘密を口外しないこと。契約書にサインすれば帰れるのだが、神楽坂さんはサインを拒んだ。僕はサインするならすぐにしたいところだが、神楽坂さんを置いてサインする訳にはいかない。
サインしなければいつまで経っても帰れないが、神楽坂さんは貴重な体験だと面白がっている。神楽坂さんが飽きるまで我慢するしかないのだ。
「お楽しみのところ失礼します」
現れたのは社長マネージャーの渡部。ここに連れられてから毎日のように現れてはサインを求めてくる。
「今日で一週間ですが、そろそろサインを書く気になりましたか?」
「冗談じゃない。サインは書かないわよ。それにここでの生活も楽しいし」
と、神楽坂さんはサインを書くことは断固拒否だった。
「そうですか。残念です。よく続きますね。私だったら初日でサインしますよ」
僕も渡部の意見に賛成だ。早くここから抜け出したい。
「神楽坂さん。もしかして秘密を守ることに反対というよりここでの生活を楽しみたい理由でサインしないんですか?」
「正直、アニマルカンパニーの秘密はどうでもいいわ。こうして馬に触れ合える機会なんてないからとことん楽しまなきゃ」
やっぱり神楽坂さんは楽しむことしか考えていない。確かにここなら人に関わることなく馬と楽しく過ごせるので神楽坂さんとしてはパラダイスかもしれない。しかし付き合わされている僕は苦痛だ。そろそろ根をあげたくなる。臭いし重労働だし休みはないし散々である。
「あなたも大変ですね。わがままなお嬢様を相手にするとは」
「えぇ、まぁ。でも、もう慣れました」
「あなただけでも帰ればよろしいのに」
「そういう訳にもいきません。神楽坂さんを一人にさせると何をするかわかりませんから」
「分かります。私も社長を一人にさせると何をするか分かりませんのでいつも傍にいないと不安ですからね」
同じ境遇同士、何故か僕たちは話が弾んでいた。いや、こんなところで意気投合している場合でもないのだが。第一、この人のせいで帰れなくなったのだから敵対するのが普通で仲良しこよししているのもおかしい話だ。
「それにあなたたちがサインしないと私も帰れないので勘弁してほしいですね。これでは我慢比べですよ」
「そうですね。なるべく早くサインするように僕から説得してみます」
「お願いします」
そんな時だった。神楽坂さんは慌てた様子で僕の元に駆け寄る。
「犬くん。すぐに来て」
「神楽坂さん、どうかしましたか」
「早く! 生まれるのよ」
「生まれる?」
「いいから早く」
神楽坂さんに連れられると横になってぐったりしている一頭の馬がいた。既に脚がお尻から出ていた。馬の出産の瞬間だった。
「犬くん。脚にロープで固定して持って。馬のりきみと同時に引っ張ってあげて」
「待ってください。やったことがないので出来ませんよ」
「やったことがないと何もしないの? さぁ、すべこべ言わずやる!」
「は、はい」
僕は言われた通りに脚をロープで括ったものを持つ。
「ヒーヒーフー。ヒーヒーフー。頑張れ!」
神楽坂さんは母馬を叩いて励ます。
すると、脚はさっきよりも出てきた。もう一息だ。
せーの! せ! と心の中でタイミングを計りながら引っ張る。
ついに馬の赤ちゃんがその姿を現す。
「う、生まれた! 生命誕生の瞬間よ」
神楽坂さんは万歳をして僕にハイタッチを求めてくる。周囲にいた飯田さんや渡部にもハイタッチを交わす。
馬の出産を目の当たりにした瞬間だ。子馬は白い粘膜のようなもので覆われており、バタバタと動いている。
「偉いね。よく頑張ったね」
神楽坂さんは母親の頭を撫でて褒めた。
母馬は苦しい表情をしているが、満足そうだった。
「どう? 犬くん。生命の誕生の瞬間に立ち会った感想は?」
「えっと、グロいですね」
「は?」
その場の空気が重くなったのを感じた。あぁ、また余計なことを言ってしまったと後悔の嵐だ。
「渡部さん。サインします」と神楽坂さんはふと、そう言った。
「え? 本当ですか?」
「はい。但し、条件があります」
「条件? 聞くだけ聞きましょう」
「今回の動物翻訳機の件に関しては目を瞑ります。でも今後、本物の動物翻訳機を開発すると約束してほしいんです。どうせなら聞いてみたいじゃないですか。動物の声。私はそんな便利なものがあったら動物好きがもっと増えると思います。動物と人間が今以上に共存できると思います。だから時間は掛かるかもしれませんが、作ってくれませんか? 本物の動物翻訳機」
「分かりました。神楽坂様の意見を社長に伝えます」
「頼みましたよ。渡部さん」
こうして無事にサインを書いて僕たちは牧場から離れることができた。たった一週間だったが、牧場の仕事はとても過酷で大変な業務であることを知れた。ある意味、このような体験をする機会はなかったので良い勉強になったと思う。少なくとも神楽坂さんはそうだった。僕はというと勉強になったことは事実だが、二度と御免だ。牧師の人を見習う。
場所は秘密なので再び目隠しをされ、駅に送り届けられた。
「これで私もやっと帰れますよ。あ、でもまだ報告があるから家には帰れませんね。飼い犬が心配です」と渡部さんは言う。
「そうですか。私のせいで付き合わせてすみません。犬を飼っているんですね。渡部さんはご実家ですか?」
「いえ、一人暮らしです」
「じゃ、ペットホテルか知り合いに預けているんですか?」
「いえ、預けていません。家で留守番しています」
「留守番って一週間も家に放置ですか?」
「はい。だから心配なんです」
「今すぐ帰ってあげてください」
「大丈夫です。家を空ける前に一週間分の水と餌を用意してきたのでなんとかなりますよ」
すると、神楽坂さんは渡部さんの胸ぐらを掴み、壁に押し付けた。ドンッ! という音が響くほど強く押し付けていた。リアルな壁ドンだ。
「な、何をするんですか」
「餌と水を用意して一週間家を空けた? 正気ですか? 犬は餌があればあるほど食べる。初日で食べ尽くして今日まで何も世話をしていないってことですよ。どうなるか想像できますよね?」
「仕事が残っているんだ。まだ帰るわけにはいかない」
「仕事と愛犬、どっちが大切だ! 答えろ!」
神楽坂さんは胸ぐらを掴む力が強くなった。声は辺り一帯に響くものだ。周囲の人は何事かと視線が神楽坂さんに集まる。
「放せ! これは立派な暴行罪だぞ」
「そんなことはどうでもいいのよ。家はどこだ! あんたが行かないなら私が行く!」
「それは困る。家主がいないのに家に上がるなんて許されるわけないだろう」
すると渡部さんスマホが鳴る。胸ぐらを掴まれながらも器用に電話に出る。
「はい。渡部です」
ペコペコと頭を下げて電話をする。電話を切ると慌てるようにどこかに向かおうとする。
「行かなきゃ。社長に殺される」
「待ちなさい。社長よりも犬はあなたに殺されそうになっているのよ」
「勘弁してくれ。行かないとやばい。早くその手を放せ!」
すると神楽坂さんは平手打ちをかまし、家の鍵と免許証を渡部さんから奪う。
「犬の救助に向かいます。あなたは来なくて結構」
神楽坂さんは走り出した。僕もその後ろ姿を追う。渡部さんはどうしたらいいかウロウロしながら嘆くだけだった。
電車を乗り継ぎ、渡部さんの住むマンションに辿り着く。免許証の住所と現在地を照らし合わせ、どうやらここで間違いなさそうだ。
「お願い。無事でいて」
他人の犬なのに神楽坂さんは自分の犬のように心配していた。扉の前まで辿り着くと奪い取った家の鍵を差し込む。開錠されたことを確認して扉を開けた。飼い犬は飼い主が帰ると玄関まで向かってくるものだが、駆け寄ってくる様子はない。最悪の事態を予想しながら家の中に入る。
忍び足でリビングに繋がる廊下を進む。するとリビングの中央にグッタリとしている柴犬の姿があった。
「……うそ」
大急ぎで神楽坂さんは倒れている犬に駆け寄る。用意されていると思われる餌は底をつき、水もほとんどない。予想した状況の通りだった。
「まだ生きている」
呼吸を確認した神楽坂さんは言った。
「でも、危険な状況だわ。犬くん、ビニール袋を持ってきて。早く」
「はい」
キッチンを漁り、コンビニの袋を見つけた。
それを神楽坂さんに渡すと袋の底に穴を開けて犬の口に袋を縛り開けられた穴に向かって大きく息を吐き出した。簡易的な人工呼吸だ。
死ぬなと僕は応援しかできない。
人工呼吸と心臓マッサージを繰り返し、数分後、犬は息を吹き返した。
「やった! 息をした」
「やりましたね。神楽坂さん」
「油断はできないわ。早く動物病院に連れて行きましょう」
その時だった。インターフォンが部屋に鳴り響く。扉を開けると複数の警察官が立っていた。
「神楽坂鈴蘭だな」
「はい」
「暴行、窃盗、住居不法侵入等で現行犯逮捕する」
神楽坂さんは警察に手錠を掛けられてしまい、パトカーに乗せられてしまった。
最初のコメントを投稿しよう!