人食いの涙

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滝の水が当たる肩に、痺れるような痛みが走る。 厳寒の滝行は、何年も修行を重ねて来た愚海上人にも、難行であることは間違いが無かった。 こわばる腕を「エイ!」と上から下に振り下ろして、腹の底から声を出して「臨、兵、闘、者、皆、陣烈、在、、、。」と九字を切った。 すると、腹から胸のあたりに熱いものが上がってくる。 その感覚を愚海は確認して、滝行を終えた。 愚海は、村に唯一あるお寺の住職である。 40歳にして、まだ独身で、村の小さなお寺を守っている。 江戸時代の後半、京都の深草から数十キロ山に入った、とある村の話であります。 着替えをして、温かい白湯を飲んでいたら、男が3人、表から勢いよく走り込んできた。 息を切らせた老人が言った。 「上人様、助けてくださいまし。た、助けてください。」 その血相から見て、余程のことがあったのだろう。 「どうしたんだ。」愚海は聞いた。 「上人様。また村の娘がやられました。」 「やられたとは。」 「食われたんです。山のバケモンに。」 「山のバケモンというと、あの人食いのバケモンか。」 「ええ、それです。池の縁に住んでる娘が、食われたんです。」 「しかし、その人食いのバケモンの仕業だとは決まった訳じゃないだろう。」 そう愚海が言うと、若い男が説明した。 「いえ、私が見たんです。あれは、間違いなくバケモンでした。見た目は人間そのものでしたけど、背丈は8尺もあろう大きさで、3人がかりで娘を取り押さえて、連れて行ったんです。それで、後を追うと、山の中の廃寺で娘の腹を切り裂いて、内臓を取り出したんです。ああ、もう思いだしても、足の震えが止まりませんのです。ああ、恐ろしい光景でした。残った娘を見たら、もう血の一滴も残っていないような、真っ白な顔をしておりました。」 その若い男の話を聞いて、「わーっ。」と泣きだした老人がいる。 娘の祖父の源治である。 「上人様。このままでは孫も成仏できません。なんとか、あのバケモンを退治してくださいませ。そして、孫を成仏させてくだされ。お願いします。」 「村に人食いのバケモンが来たのは、あれは10年ほど前か。しばらく音沙汰なかったが、また村に現れたんだな。うむ。」 「お願いします。うちにも娘がおるんです。これじゃ、安心してわしら畑にも出られやしません。」最初の老人が拝むように愚海に頼んだ。 愚海は、考えていた。 どうしたものか。 バケモンと言っても、聞けば人間の体裁をした生き物だと言う。 或いは、人間であるのかもしれない。 言葉は通じるのか。 通じるのなら、説教をすることはできるかもしれない。 通じないのなら、どうするか。 いや、人間の娘を取って食べるバケモンである。 言葉が通じても、説得は難しいであろう。 これ以上、被害を出さないようにするには、やはり、殺すしかないのか。 いや、そもそも、仏に仕える身が、人間に似た物、ひょっとしたら人間かもしれないものを、殺して許されるものだろうか。 とはいうものの、放っておいたら、次の娘が狙われる。 また、犠牲者が出てしまうのである。 そんなことを考えていると、「上人様。」と叫びながら、愚海の衣に縋りつくように3人の男がひれ伏していた。 「うむ。解った。」 そう愚海は言ったが、まだどうするかを、腹の中に落とし込んだわけではなかった。 取り敢えず、バケモンのところに行ってみるか。 そう思って、支度をした。 念のために、脇差を腰にさした。 そして、あくまで己を守るためだと、愚海は自分に言い聞かせた。 昼下がりの山道を、若い男に教えられたとおりに歩いて行くと、やがて、少しばかり開けた広場に突き当たり、そこに例の廃寺があった。 愚海が、その廃寺の戸を開けると、そこには、もう娘の亡骸は無かった。 さて、バケモンは、どこにいるのかと辺りを見回すと、寺の裏の方から誰かの泣く声が聞こえてくる。 愚海は、なんだろうと思い、歩いて近づくと、本堂の裏の奥の院らしき祠の前で、白木の棺を前に泣いている女がいる。 近づいて、女を見たら、女は驚いて、声にもならない「ググッ、ググッ。」という喉からの声を出して、「あ、あなたは。に、人間が、どうしてここに。」と、人間と同じ言葉遣いで聞いた。 愚海は、言葉が話せることに驚いたが、これは都合が良いと、それに、すぐにでも襲ってくるのかと思ったが、それもないので、少しホッとした。 「いや、私は、ちょっと用があって訪ねて来たのだ。その棺の娘さんは、あなたの子供ですか。」 棺の中を見ると、背丈はかなり大きいが、まだ10歳ぐらいに見える女の子が、やせ細って、もう顔色もなく、静かに横たわっていた。 「ええ、今日死んだんです。」とか細い声で答えた。 愚海は、その娘に、手を合わした。 そして気が付くと、枕経を唱えていた。 すると、棺の娘の母親は、「ああ、ありがとうございます。ありがとうございます。」と泣きながら愚海に礼を言った。 しかし、バケモンを退治しにやってきた愚海であったが、周りを見ると、いかにもバケモンだというものはいない。 寧ろ、身なりの整った礼儀正しものばかりだ。 ただ、背丈だけは異様に高い。 愚海が辺りを見回していると、一人の40歳ぐらいの男が声を掛けてきた。 「愚海上人様ですね。」 愚海は、びっくりして、「どうして私の名前を知っているのか。」そう聞いた。 「10年ほど前に、この村を訪れたことがありましたので覚えております。また、この度は、シノに枕経をあげていただいて、ありがとうございます。」 死んだ娘は、シノというようだ。 男は、礼儀正しく愚海に言った。 愚海は、先ほどから、考えていた。 果たして、これらのものが、あの人食いのバケモンなのか。 それにしては、実に礼儀正しいではないか。 人を殺して食うなんてことは、考えられない。 しかも、背丈の高さを除いては、人間となんら変わるところがない。 しばらく無言で考えていたら、男が話し出した。 「あのう、上人様。今日、ここにおいでになったのは、村の娘がいなくなった件でしょうか。」 男が愚海の考えを察して、先に切り出した。 愚海は、驚いたけれども、納得がいったように話し出した。 「実は、そうじゃ。そのことじゃ。村のものが、あなたたちが、娘をさらって、この裏の廃寺で殺したところを見ているんです。それは、本当のことなのですか。」 すると男は、隠そうともせずに、「ええ、そうです。」と答えた。 「何故、そんなことをするのだ。見れば、礼儀正しい、人間じゃないか。わしらは、村ではバケモンと思っていたのだ。それが、来てみると、わしらと同じ人間じゃないか。」 「はい。わたくしどもも、自分の事を人間だと思っております。ただ、ひとつだけ違うことがありまして、人里離れたこんなところに住んでおります。」 「ひとつだけ違うところと言うと。」 「はい、私どもは、どういう因果か知りませんが、人の肉を食べないと、死んでしまうのです。なので、今度の村の娘も、致し方なく、殺して食しました。」 「いや、娘が連れ去られて食べられたのは、その前は、10年ほど前だっただろう。常食しているわけではないんだな。」 「ええ、わたくしどもも、同じ村で、何人も捕まえる訳にはいきませんので、日本中の村を転々と回っております。それで、10年ぶりにこの村にやってきたのです。」 「そういうことか。なるほど。しかし、人の肉を食べないと死ぬというのは、本当のことなのかね。」 「はい。月に1度食べねば、死んでしまいます。」 「しかし、他の食べ物で、補う訳にはいかんのかね。」 「はい、何度も、他の食物で試しましたが、ダメです。シカやイノシシ、山で捕れる生き物は、みんな試しました。」 「食べないとどうなる。」 「はい、衰弱してしんでしまいます。そうです。さっきの棺の中のシノも、人間の肉を食べなかったために死んだのです。」 「人間の肉を食べなかったとは。」 「ええ、実は、2年ほど前でしょうか、シノが村に遊びに出かけた時の事です。誤って沢に落ちて足を痛めたのですが、その時に、村のおばあさんが、優しく看護してくれたんです。そのお陰で、傷もつくことなく、治ったんです。その恩義を感じて、人間の肉を断ったんです。それに、人間を、ほふるときの泣き叫ぶ声が、耳の奥にこびりついて消えないとも言ってました。」 「うん、そうか。それは、可哀想な話であるな。」 「上人様、わたしどもは、人間を殺して食べなければ生きていけない性に生まれたのは、どんな悪行を前世でしてきたのでしょうか。わたしどもは、これからどうしたら良いのでしょう。これからも人間を食べて良いのでしょうか。それとも、全員、食べずに死ぬべきなのでしょうか。」 男は、涙を流しながら、上人様に縋りついた。 それにしてもと愚海は思った。 このものたちは、人間の肉を食べなければ、死ぬという。 今まで、人間を襲ってきたのは、このものたちが生きるためだ。 或いは、仕方のないことではないだろうか。 そんな考えが浮かんできたのである。 人間も、鹿や山の生き物を食べることもある。 まあ、それは稀なことだが、魚はどうだ。貝は。 魚を獲って来てさばいて食べている。 しかし、それは生きるためなのか。 いや、違う。 人間は、魚を殺して食べなくても生きて行くことが出来る。 このわしを考えてみれば分かることだ。 実際に、精進料理ばかり食っているが、まだこの通り生きておる。 人間は、魚を食べなくても生きて行くことが出来るのである。 それならば、何故、魚を殺して食べるのか。 それは、食うと、美味いからだ。 魚を、さばいて刺身でも良い、焼いてもいい、そうして食べると実に美味いからだ。 魚を、美味いと言う理由で、殺して食べる。 人間を、食べなければ死んでしまうと言う理由で、殺して食べる。 仏様は、どっちを悪とみなすのだろうか。 しかし、何と言っても人間である。 人間は、魚とは、生きている重さが違うというものだろう。 そう、愚海は思った。 魚を殺す罪と、人間を殺す罪なら、人間を殺す罪の方が、断然重いに違いない。 やっぱり村人を捕らえて、殺して食べるのは、罪に違いないのである。 それなら、これらのものに、死ねと言うのか。 彼らも、人間と同じである。 どうみたって、人間だ。 いや、村人よりも、教養もあり、人間らしい暮らしをしているではないか。 親を敬い、礼儀正しく、こころねも優しい。 或いは、村の人間よりも、徳のある人間なのかもしれないではないか。 愚海は、考えても考えても、答えが出なかった。 すがる男に向かって、こう言った。 「すまぬが、数日、考えさせてくれ。どうすればよいのか、わしなりに考えてみる。しばらく、待ってはくれぬか。」 すると、男の表情がパッと明るくなり、喜んで言った。 「上人様、ありがとうございます。実は、わたしも、先代も、先々代も、このことについて悩んできたのです。それでも答えがでなかった。ここに30名ほどで暮らしておりますが、もし答えがでるのなら、みんな喜んで、上人様の教えに従います。たとえ、それが死ぬことであってもです。答えが出たなら、今日死んだ棺の娘も救われるというものです。」 それを聞いて、何としても仏に仕える身として答えをださねばという意欲が湧いて出てきたのである。 愚海は、やや興奮気味に、「よし、分かった。」と男たちに言った。 愚海は、こころの底から、このものたちを救いたいと考えていた。 「ところで、村の娘の亡骸を引き取って帰りたいのだが。」 そう愚海が言うと、「実は、もう身を綺麗に洗って、お墓に埋めました。あとで、その場所に案内します。そうだ、これが娘の着ていたものと、持っていたものです。」 男は、そう言って、綺麗に折りたたんだ着物と持ち物が入った風呂敷包みを愚海の前に差し出した。 かすかに白檀の香がした。 愚海は、殺された娘の墓にお参りをして、老人に風呂敷包みを返すべく、村に帰ることにした。 別れ際に、廃寺の前で、男に言った。 「待っててくれ。必ず答えを出してみせる。」 愚海は、本気だった。 バケモンの男や女は、愚海を拝むようにして、見送ったのである。 少し陽が落ちかけようとする山道を、村に向かって歩く。 半分ぐらい下りてきたところで、村から20名ばかりの男たちが、松明を掲げ、各々、鎌や、のこぎり、竹やりなど、思いつく武器になるものを持って、歩いて来る。 「どうしたのだね。」愚海が言った。 「あ、上人様。あれから村で話したんだがね、これからバケモンを退治しに行くんですわ。もう村人が殺されんように、先に、こっちから殺しにいくんです。」 それを聞いて、愚海は慌てた。 「いや、待て。例のバケモンとは、わしが必ず解決策を見つける。だから、待つんだ。」 「たとえ、上人様の言う事でも、今回は、出来ません。もうこれ以上、殺されるのは、まっぴらなんです。」 そう言うと、愚海の止める手を振り払って、一斉に山を上って行った。 必死になって、止めたが、もう愚海1人の手では、大勢の男たちを止めることは出来なかった。 愚海は、その場に立ち尽くした。 これから起こる惨劇を、愚海は月を見上げて待つしかなかった。 30分ほど経っただろうか。 村の男たちが降りて来た。 「殺せ、殺せ、殺したれ。バケモン、全員、殺したれ。」 大声で、歌を歌いながら降りてくる。 驚くぐらいに、興奮しているではないか。 「どうなったんだ。」愚海が聞いた。 「はい。全員、皆殺しです。ははは、殺したりましたよ。」 愚海は、声が出なかった。 「上人様、これで安心してください。もう、娘は殺されません。」 そう村の男が答える後ろから、「殺せ、殺せ。」という歌声が聞こえてくる。 みんな、喜びを抑えきれずに、踊りだしそうな勢いだ。 ふと見ると、男たちは、バケモンたちから奪い取った財宝を、手に持っている。 持ちきれないぐらいに奪ってきたものを、両手で抱えて持っているのである。 昼間、孫を殺されたと訴えてきた老人がいた。 愚海は、近寄って、孫の着物を渡そうとした。 「これ、お孫さんの、、、。」 そういう愚海の声は聞こえないらしく、「上人様、例のバケモンから奪ってきましたよ。これ、金のかんざしですよ。これ町で売ったら、高こう売れまっせ。へへへ。」 目をギラつかせて、金のかんざしを嬉しそうに愚海に見せた。 村の男が、山を下りて行った。 最後に歩いていた男が、愚案に言った言葉が気になった。 「それにしても、不思議なんですよ。みんな、殺しに行ってるのに、誰一人、抵抗しなかったんです。みんな、胸で手を合わせて、殺されるのを待ってるかのようだったんです。何故、抵抗しなかったんでしょう。」 男は、首を振りながら、「解せない、解せない。」そう言いながら、山を下りて行った。 愚海は、いてもたってもいられず、さっきの廃寺の方に、道を引き返した。 すっかり日が落ちた廃寺は、もう真っ暗で、ただ月の灯りで、村人にバケモンと呼ばれていた人たちが、うっすらと白く浮かび上がるのが見えた。 誰もが、安らかな顔をして横たわっている。 愚海は、そこに泣き崩れた。 「ああ、何という馬鹿なことをしたんだ。あのまま、この場にとどまっていたら、或いは、村人を制することができたのかもしれないのに。」 愚海は、死んだ者たちを、1カ所に集め、夜の獣たちに食われないように見張りながら、彼らの冥福を祈って、一晩中祈り続けた。 やがて、日が上り、あたりは、明るくなった。 そして、丸1日かかって、墓を掘り、そこに丁重に埋葬をした。 もうそろそろ、次の夜が来そうな時間だった。 愚海は、お墓に向かって、手を合わせ、しっかりとした口調で、自分自身に決心を促すように、こう言った。 「村人を止めることが出来ずに、申し訳ない。ただ、あなたたちが出した、どうすれば良いかという問いの答えは、必ず出します。生きるために人間を殺して食べても良いのか、食べずに死ぬべきなのか、或いは、他に道があるのか。必ず、答えを見つけてみせます。」 愚海は、早足で、山道を降りながら、思った。 この問題が解けなければ、仏に仕える意味はない。 息が荒かった。
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