深海の水は摂氏一〇〇度でも沸騰しない

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 深海の水は摂氏100℃でも沸騰しない。重力が沸騰を妨げるからだ。こう書き始めた所で私は自分の今の状況のあまりに陳腐な隠喩に顔を赤らめる。続けて書けば私はさしづめその深海にいる魚かなんかだろうか。体内の熱を発散できずただ死にゆくだけの。しかしもうやめよう。こんな事を延々と書くのはウンザリだ。私は部屋を見渡す。深夜のマンションの一階の部屋。海底のようなこの部屋には光なんて全く届かない。ただ生ぬるい澱んだ空気が漂ってるだけだ。  夫は今日は帰らない。さっきメールがあった。仕事の都合とただそれだけ。あからさまな嘘。とっくにバレている嘘を何故吐き続けるのか。  深海の水は摂氏100℃でも沸騰しない。沸騰しないのは重圧のせいと酸素がないからだ。酸素を求めて魚は海面へと向かう。私も同様に生きるために外へ向かう。  午前2時。彼は約束通り来てくれるのか。  どんなに真摯な言葉でも積み上げれば積み上げれるほど果実が腐るように陳腐化する。私は救って欲しい。あなたしか私は救えない。そんな言葉が人に重みを持つのは最初だけだ。新鮮な果実のように人はそんな言葉に感動し、相手を想う。だけどそんな言葉もウンザリするほど繰り返されればもはや食べられないほど甘く腐り切って嫌な匂いをたてる代物へと化す。  そんなふうに私は彼に言いすぎたのだ。毎日毎日今すぐ会いたいと。出会い系サイトに登録して初めて声をかけてくれた人。最初は疑ったけどチャットしたら完全に話があった。暇潰しでからかいのために始めたのに彼のせいで完全に夢中になっていた。私は自分の悩みを打ち明けて、彼は私を慰めてくれて、私たちは頻繁にチャットしあった。私たちもっと早く出会えたらとか、今の生活に耐えられないとかそんな陳腐極まりない言葉を交わした。  深海の水は摂氏100℃でも沸騰しない。だけど酸素があれば沸騰させる事はできる。こんなどうしようもない事を陳腐極まりない文学的比喩で語るなんて恥ずかしいし、バカげた事だ。なんで私はいつもこうやって気取ろうとするのだろう。もっとはっきり、他の女たちのように言えばいいではないか。 「ああ!誰でもいいから男に抱かれたいのよ!私の体をめちゃくちゃに壊して欲しいのよ!」  午前3時。私は待ち合わせ場所のホテルの前に来た。彼はまだ来ていない。私は自分が来た事をチャットで知らせる。だが彼からレスポンスはない。  ここで私は現実に目覚める。夢の終わりは陳腐さもなく訪れる。ただの並行移動。右から左へ場所が移っただけだ。帰ろう。彼に送った言葉をここに置き捨てて。涙もなく見送る私。もうすぐ夜が明ける。そうして私は日常という深海に戻るのだ。だがそうして家へと帰ろうとした瞬間不意に涙が出てきた。今深海へと戻ったら私を沸騰させてくれるものと二度と会う事はない。だがどうするのだ。この誰も来ない暗闇で永遠に立っていろというのか。私はこれからどうしたらいいのか。その時誰かが背中から私の肩を叩いた。 「あの、はじめまして。僕です。いや、僕って言ってもわからないか。まぁとりあえず自己紹介を……」  私を沸騰させてくれるものは確かにいた。私は何も言わず彼の手を引いてホテルに入った。
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