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バレンタインに菊田からチョコレートをもらったのは初めてのことだった。拷問のような餌付けのようなアレを、果たして『もらった』としてカウントしていいのかどうか、藤には判断がつかなかったが、とにかく菊田からチョコレートを食べさせられたことだけは事実だ。
――おまえ、今日はもうチョコ食うな。
そんな牽制球のオマケつき。独占欲とは少し違っていて、嫉妬などという醜悪な感情とも全く違っていて、それは菊田のマーキングに過ぎない。そんなことは藤にもわかっているが、藤光太郎は菊田灯路のものであると明確に示される行為は、藤にとって百の愛の言葉を羅列されるより、鮮烈で猛烈な愛情表現だった。
「なあ、菊」
「ネタ合わせならやらへんぞ」
「ちゃうよ。そんなんとちゃうくて……」
月に一度のステージ。本番三十分前。他の芸人はみな廊下でネタ合わせを始めていて、だだっ広い控え室には藤と菊田のふたりのみ。イライラとパイプ椅子を揺らし、自分で揺らしているくせにギィギィ鳴る音に菊田が舌打ちをする。今日はいつもより苛立っているようで、眉間のシワがどんどん深くなっていく。
関西の野犬という異名をもつ菊田だが、その風貌は美しい。美しいといっても柔で中性的なものではなく、野生の中で気高く生きる狼のような美しさ。どこにいても誰の前でも決して折れることのないプライドは、凛と冷たい冬の空気にも似ている。
「チョコレート。どういう意味やったん?」
意味など聞かずともわかっている。だが、たまには少し踏み込んでみたくて、藤はついついそんなことを口走っていた。
「あぁ?」
「あ、いや……わかってるけど……」
「わかってへん。おまえは、なんもわかってへん」
菊田が藤の椅子を蹴る。
「わかってへんから意味を聞いたんやろ?」
前屈みになった菊田が、藤を覗きこむようにじっと凝視する。それは藤にとっては睨みつけられるよりも怖いことだった。睨まれるのならば、まだ菊田の感情がわかる。だが、ただじっと凝視されるのは、ひたすらに怖い。喉がカラカラに渇いていく。バレンタインちょうど、0時すぎに口に突っ込まれたチョコレートが、今さらになって胃の奥からあがってくるかのようだった。
藤はただ、一度も言ったことのない、一度も聞いたことのない単純な「好き」という言葉を聞いてみたかっただけなのだ。菊田のマーキング行為そのものが愛情表現だとは知っている。それは百の愛の言葉よりも重く意味のあることだとも。
それでもたまにはバレンタインなどという浮かれたイベントに乗っかって、わかりやすい愛情表現をしてほしい、してみたいと……そう思った自分がバカだったと、藤は困った顔で菊田を見た。
「藤、知ってるか? そういうんは、言わへんからええねん。言わないからいつでも終わることが出来んねん」
「菊……」
「ほんで……言わないから、ずっと続けられることも出来んねん」
好きだと言ってしまったら、付き合おうと言ってしまったら、なにかがはじまってしまう。だから言わないままに続けてきたのだ。はじまりがなければ終わりもない。菊田が言っているのは、そういうことだ。
「いつか終わってもええんなら、言うたんで?」
甘い誘惑だった。菊田灯路という男から、愛の言葉をもらえる誘惑。藤はわずかに葛藤する。抗うことの出来ない衝動に溺れながらも、必死に抵抗し、藤は静かに首を横に振った。
「……まぁ、死ぬ時には言うたるよ。そん時、一緒におったらの話やけどな」
「へ……それ、なんで菊が先に死ぬ設定なん」
「はぁ? 一緒におったら、おまえも死ぬやろ。なに言うてんねん」
あほかと、思いきり頭を叩かれる。死の間際、一緒にいることが出来たら、一緒に死ぬことを、菊田が容認してくれているのだとわかり、藤は喜びを隠しきれない。
「なに笑てんねん」
「だって……あぁ、でも……俺のほうが先に死にそうやったら……」
「そん時は嫁とガキに看取ってもらえ。骨くらいは拾ったるから」
嫁とガキ。急に現実を放り投げられて、藤の心は大きなダメージを食らう。
「……絶対、菊より先には死なへん」
「ふーん」
三十分が過ぎ、そろそろ出番だとスタッフに声をかけられる。無言で立ちあがり首を鳴らす菊田を見て、藤は心の中でこっそりと願う。
どうか地獄の果てまで連れていってくれますように――。
菊田が自覚しないままに、菊田は藤光太郎という『荷物』を持たされている。
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