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電車の中で座る六郎は、これからどうしていけばいいかわからず、放心していた。
オーディションに落ちた。座長に笑われた。門脇晶に否定された。憧れの劇団SOLID STANDに選ばれなかった。笑われた。門脇晶に否定された。
門脇晶に否定された。それは、六郎にとっては、信じていた女神に見放されたに等しかった。劇団のファンとして、門脇晶のファンとして、全公演に足を運び、グッズを集め、DVDを何度も見返し、SNSで役者の投稿をチェックし、動画サイトに投稿された動画は公開されてすぐに開いて高評価ボタンを押した。
六郎の日々の楽しみは、生き甲斐は、劇団SOLID STANDと門脇晶に集約していた。六郎の人生を支える大きな柱が崩れてしまった。
最寄り駅を乗り過ごした六郎は、ホームでじっと電車を待っているのが嫌で、改札を出て家まで歩くことにした。
SNSを開くと、門脇晶のアカウントが更新されていた。
“今日は劇団SOLID STAND次回公演のオーディションでした!
新しい仲間たちと早く一緒にステキな世界を作りたいっ!”
“新しい仲間”その中に自分は含まれていない。
自分はのけ者にされた。
俺は選ばれなかった。
俺は選ばれない。
俺は選ばれない。
俺に生きる価値なんて無いんだ。
自分で自分を否定する言葉を頭の中で繰り返していると、両目が涙声が緩むのを感じた。それと同時に、涙がボロっとこぼれた。顔が勝手に歪み、喉から嗚咽が漏れた。泣きながらも「泣いているところを見られるのは恥ずかしい」という理性は働いて、六郎はそばを通る河川敷の橋の下に逃げた。それから、母親に「もう知らない」と言われた子供のように泣きじゃくった。
俺に生きる価値なんて無いんだ。俺に、生きる価値なんて無い。
どのくらい時間が経ったかわからない。泣くのも虚しくなってきた六郎は、すれ違う人に泣き顔を見られないよううつむいて自宅に帰った。時刻は夜の十時になろうとしていた。
玄関を開けると、生活感に満ちた部屋の光景が広がる。自分が夢見た世界とのギャップを感じずにはいられない。
靴を脱ぎ、リュックを放り捨て、居間の電気を点けると、それはあった。
それはトランクケースだった。革張りで大きい。表面のあちこちが擦れ、金具は古びており、アンティークのようだった。それがテーブルの上を占領している。発泡酒の空き缶や菓子パンの袋、爪切り、役所からきた未開封の封筒とのギャップも相まって、トランクケースは部屋の中で異質な雰囲気を放っていた。
その異様さに驚いてすぐには気づかなかったが、トランクケースの上には一通の手紙が置かれていた。封筒は封蝋が押されている。
レターナイフなど持っていない六郎は手で強引に封蝋を破り、中にある紙を開いた。六郎を苛んでいた絶望感はいつのまに消えていた。
渇望を胸に秘めたものよ
偽りの仮面を引き剥がせ
この仮面が 本当のお前を解き放つ
開いた紙にはそう書かれていた。何のことか検討がつかない。封筒にはもう二枚の紙と一枚の写真が入っていた――なぜこんなものが部屋にあるのか、という疑問が、六郎の頭に浮かぶことはなかった。
一つ、舞踏者舞踏者は招待状に従い闘う
一つ、舞踏者は命を燃やして闘いに臨む
一つ、仮面を失ったもの、命を落としたものは失格となる
一つ、舞踏者は自分の正体を誰にも明かしてはならない
一つ、私欲のために力を利用してはならない
「レ、イヴェスト?」
仮面? 闘い? 力?
手紙に書かれているのはこれだけだった。これらの言葉が何を意味するのか、その答えを知るには、トランクケースを開くしかない。
六郎は金具をはずし、トランクケースを開いた。
中に入っていたのは、衣装らしきものと、一面の仮面だった。
六郎は仮面を手にとる。それは思っていたよりも重く、縁日やコスプレショップに置かれているようなものとは全く異なるものだとわかった。仮面には口も鼻もないが、掘られたモールドや表面の隆起が、それらを象っていた。目に当たる部分には下弦にしなったスリットがある。
仮面は、西洋騎士の甲冑のように見えた。色は黒で、蛍光灯に照らされているのに暗い。まるで、仮面が暗闇そのもののようだ。
仮面の“目”が自分を見つめているような気がした。
渇望を胸に秘めたものよ
偽りの仮面を引き剥がせ
この仮面が 本当のお前を解き放つ
明確な理由はなかった。ただ、閉じたまぶたを開けるように、あるべき場所に戻すように自然に、六郎はその仮面を自分の顔に被せた。
その瞬間、頭に衝撃が走る。六郎は反射的に顔を押さえる。
衝撃はすぐに全身に渡った。太い稲妻が体中を駆け巡るようだった。血管がこじ開けられる、筋肉が膨張する、骨が凝縮する。神経が絶叫する。
全身がこわばり、身動きがとれない。自分の中で、何かが変容している。恐ろしいことが起こっているという恐怖は、躍動する稲妻と、頭の中に聞こえてくる声によって消される。
闘え。
闘え。
闘え。
美しく在るために。
頭の中で大きなスパークが起こった。
六郎は絶叫し、拳を振り下ろす。
その瞬間、全身を襲った衝撃が消え去った。
荒い呼吸が、しばらく部屋の中に響いた。衝撃から開放された六郎は、スリットの大きさの割には妙に開けた視界に映る、真っ二つに破砕された棚に気づいた。その棚には、劇団SOLID STANDのDVDやパンフレット、フライヤー、グッズを飾っていた。DVDはケースごと粉々になり、パンフレットやフライヤーは引き裂かれている。門脇晶と撮ったチェキも、紙くずと化している。
これは自分がやったのか? 信じられない。しかし。木材を砕く感触が右手に残っていた。棚を木っ端微塵にしたのは間違いなく自分だ。
「俺……どうなったんだ」
しかし、その疑問はすぐに消え去った。六郎には、自分が何をするべきか、すでにわかっていた。
六郎は封筒に入っていたもう一枚の紙を手にした。そこには自分に用意された“ステージ”と、同じ舞台に立つ相手の名前が記されている。
シアターアーツ。
清白の サーライツ
鬱屈した日常からの脱却を目指すも、憧れに見放されて絶望した男は、静かに衣装を纏った。
紫黒の爪 バーゼルグが、舞踏会へ登壇する。
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