9,上野

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「……一月くん?」  動かない俺を待ちかねたのか、監督が声をかけてきた。  息を詰めていたスタッフたちがざわめきだす。 「……すみません。上手く演技に入れませんでした」  腕をアスファルトの床に突き、頭を持ち上げて謝った。上手くは入れなかったのは演技にじゃない、主人公のスバルにだ。 「初めからやり直そう」  監督のそのひと声で、現場は仕切り直しとなる。 「大丈夫か? 一月らしくない……」  俺の衣装についた砂粒を払いながら、マネージャーが言ってきた。 (そんなことは分かってる、分かってるけど……)  そして2度目のリハーサルも俺はスバルになりきれないまま、中途半端に動きだした。  こんなのは演技じゃない。ただセリフと立ち位置の確認だけで終わる。 (どうして……)  稽古では、スタジオ収録ではシンクロできていたスバルが、今日はどこにも見当たらない。日の光が差してきて、指はかじかんだままなのに額には嫌な汗が出た。  スタッフの輪の後ろで俺の上着を抱いている、マネージャーの姿が見えた。  彼も明らかに不安そうだ。俺がこれっぽっちも演技に集中できていないことは、マネージャーにはとっくにバレている。そして……。 (羽田さん……)  彼は自分の出番が当分来ないことを知っているかのように、マスクを小脇に抱えたまま遠い目をしていた。こっちを見られているとプレッシャーなのに、見られなければ見放された気分になる。  俺はあの人を意識しすぎている。分かっていても彼を意識から遠ざけられなくて、イライラが募った。これじゃあとても役柄をつかまえるどころじゃない。 「本番!」  カメラにRECランプが灯っても、リハーサルの時と同じつかめない演技が続いた。 「うーん、悪くはないんだけどな。一月くんなら、もっと魅せる演技ができる気がする」  監督はそんなことを言いながら、渋い顔で映像をチェックしている。 「魅せる演技って……」  助監督が聞き返した。すると監督は助監督にではなく、俺の方へ視線を送る。 「一月くん、このシーンはオーディションの最終審査で、君が演じたシーンだ」 「はい……」 「あの時の君には、もっと鬼気迫るものがあった」  それはそうだ。あの時の俺は俺じゃない。主人公のスバルに、ユーマニオンレッドとなる男になりきれていた。 「つかめていないんです、今日は……」  そんな本音を口にすると、監督は腕組みして遠くの空を見上げた。 「……そうだな。日を改めて撮り直そう。本人が駄目だと思うなら尚更だ」 「えっ!? 今なんて……」  思わず耳を疑う。今日は野外ロケで、エキストラも大勢集められている。そう簡単に後日になんてわけにはいかないはずだ。  そばにいた助監督やカメラマンも、ぎょっとした顔で監督を見ていた。 「いやいや、続行しましょう! 多少調子が悪くたって、編集でいい感じに繋げますよ」 「そうですね! 羽田さんもずっとスタンバってますし」  2人がフォローしても、監督の考えは変わらなかった。 「いや、撤収しよう。今日は日が悪い」  他のみんなにも撤収が伝えられる。 (そんな、俺のせいで……)  みんなの顔が見られない。俺はいたたまれない気持ちで唇を噛んだ。
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