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霧の都ロンドン。
昼なお暗く、華やかなヴィクトリア朝とは相反する空気。
そんな都市の南にある大きな館に、二つの影が静かに近づく。小雨が周囲を満たし始める中、特に慌てる様子もなく壮大な扉の前に立った。
二つのうち一つ、帽子を目深に被った男が、これまた立派なドアノッカーを叩きつける。
暫くして、パタパタと内部を駆ける音が響いて、次いで扉がゆっくりと開かれる。
「Ah―――、What's your name?(どちら様でしょうか)」
少しだけ開かれた扉から顔だけ覗かせ、恐らく家政婦であろう女性がそう尋ねる。
「Sorry to bother you so late at night. (夜分遅く申し訳ない)」
男は肩からずり落ちそうになったフロックコートを直し、帽子を取って胸の前に添える。よく見れば珍妙な恰好をしていたが、それを考慮してなお有り余る美貌の持ち主だった。女性は思わず赤面し、誤魔化すように咳払いを一つ。
「I am a medicine seller.(私は薬を売っています)
―――Would you please buy these,How about you?(どうか買っていただけませんかね)」
◇
「いや~~、どうもおおきに!!」
場面は一転、シャンデリアが眩しい館の中。
「いえいえ、丁度殺鼠剤が欲しかったもので」
恰幅の良い初老の男性が、にこやかに言い返す。表情、態度のどれからも不満を感じず、本心から喜んでいることが窺える。
「その上一晩泊めて下さるなんて!」
「珍しい東洋の薬を見せてもらったお礼ですよ」
薬売りの男が手を叩いて喜ぶ。彼もまた喜びを表現し、館の主人を見上げる。
「旅人には辛いご時世、ほんまに痛み入ります」
ごとりと音を立てて、男の連れが箱を背負う。円卓に並べられていた薬は既に収納済みで、連れの女性は重そうな薬箱を軽々と持ち上げていた。
珍しいもの見たさでロビーに出てきたドレス姿の女性は、磨き上げられた慎ましさをもって男に礼をする。
「長旅の疲れを、僅かばかりでも癒せれば幸いです。何かあればメイドに申し付けてください」
「おや、随分美しい娘さんやな!」
「え、いえ、あの、恐縮です、薬売りの方」
無邪気な笑顔にすっかり見惚れてしまい、娘は顔を湯気が出るほど赤く染め一歩下がる。その様子を見たもう一人の女性、奥方は微笑ましい姿に笑みを浮かべた。
「どうぞゆっくりお休みください。私たちは貴方方を歓迎いたします」
「おおきに、おおきに!!」
「……」
主人の手を取り、ブンブンと大きく振る。まず間違いなく肩を痛めるような勢いだったが、痛めたのは主人の方だけだったようだ。手を離された後、右肩をさすっていた。肩をさすりながら、連れの女性を見遣る。薬箱を背負ってから微動だにしていない。少々不気味に感じられたが、相手は極東の島国から来た者たち。自身の持つ常識とはまた違う何かがあるんだな、程度の思考をして、主人は薬売りの男に向き直る。
「そういえばお名前を伺っておりませんね」
「名前?」
きょとん、とした顔をして、すぐに合点がいったように笑顔になる。
「ええてええて。“ヤクシ”と呼んでいただければ」
「ヤクシ、ですか?」
「そや」
聞きなれない単語に、今度は館の家族がきょとんとした顔つきになる。彼はその表情に気付いたのかそうでないのか、“ヤクシ”について説明を始めた。
「薬師如来、つまり自分の故郷の神様や。医薬を司っとって、医者や薬売る者にとってはありがたーい御方やで」
「ああなるほど、その神様の名にあやかって御加護をいただこうと」
「何や、べっぴんさんだけやのうて頭もええ!将来有望やな!あ、こっちは助手はんどす」
最早褒め殺しである。薬箱を背負った女性を適当に指さしつつ、年頃の娘を赤面させるような言葉を言い淀むことなく繰り出す。娘は既に顔を手で覆ってしまっている。隙間から覗く耳は真っ赤だ。
「事情で世界を回っとるけど、自分の故郷は何処にも引けを取らない、ホントええとこや!ああ、一泊のお礼に連れていきたいぐらいですわ!」
楽しそうに故郷に思いを馳せるヤクシに思わず笑みが零れ、暖かな雰囲気に包まれる。
「私も聞いてみたいですね、ヤクシさんの故郷の話」
「東洋はまだ謎だらけだからな」
夫婦も談笑し、ロビーは笑顔で溢れる。主人も、奥方も、娘も、ヤクシも、みんなみんな笑い合って、漸く静かに近づく家政婦の女性に気が付いた。見た目通り落ち着いた動作で、手慣れたようにお辞儀をする。
「お客様、お部屋の準備ができましたのでご案内いたします」
「おおきに!ほな行きましょ助手はん」
「――――、」
軽快に答えるヤクシとは裏腹に、助手はただただ黙っている。流石にこのような客人は初めてなのか、家政婦の女性が僅かばかり狼狽える。
「え、ええと」
「ああ、助手はん無口なんどす」
家政婦の後ろについたヤクシに、助手は音もなく近づいて隣を歩く。幽鬼の如き様に疑問を抱くが、やはり小さなことだと一家は切り捨てる。
「ま、気にしいひんで下さい。
――――――ところで、」
そのまま家政婦についていくかと思いきや、ヤクシは足を止めて半身分振り返る。
「此処に住んどるのはおたくらだけ?」
「はい、あとはメイドが3名とコックが2人。合計で7人がこの屋敷に。でもどうして?」
「そかそか!いや何でもあらへん。ほな休ませていただきます」
手を振り、肩にかけただけのフロックコートを翻して歩き出す。一際目立つ階段を上っていく後姿を見つめながら、娘は悩まし気に息を吐く。
「…さて、ヤクシさんにも夕食の準備をしなければ!コックに言って私も手伝わせていただいて、」
「夕食はいらないらしいよ?」
「ええ!?」
娘が勢い良く振り返る。主人は「聞いていなかったのかい?」と苦笑交じりに言えば、娘はあからさまに肩を落とす。実際、館に泊まってほしいと切り出したときに出た話題だ。勿論娘もその場にいたはずだが、生憎とヤクシに見惚れていた最中だったので聞いていない。無念。
「折角私が作ろうと思ったのに……」
奥方がおやと愛娘の様子を見る。その姿に若い頃の自分を重ね、ああこれは完璧に惚れているなと上品に笑う。
「あらあら、ヤクシさんが気に入ったみたいね」
「もうっ、お母様!」
「いいじゃないか、若い証拠だ」
「お父様まで!」
からかわれているのは明白だが、残念ながら娘には解っていない。
「だって、久々のお客様だし、」
「張り切っちゃうんだなぁ」
「そうねぇ」
「やめて!」
うふふ、ははは。冗談とからかいが飛び交うロビー。
その様子を、ギリギリロビーが見える廊下の影、ヤクシはただ黙って見つめていた。
「お客様?」
「ああ、すいません」
振り返った家政婦からは彼の後ろ姿しか見えない。家族は談笑して気付いていない。
故に、ヤクシが意味深な笑みを浮かべているのを知っているのは、隣にいる無口の助手のみ。
「今、行きます」
◇
「ふう」
二階。暗闇が蔓延る廊下を娘が歩く。とっくの昔に日付は変わり、館の住人は既に眠っている。ベッドに入ったら後は朝日を待つだけだが、娘は手に持ったランプを頼りに何処かへ向かう。
「お父様たちが変なこと言うから、眠れなくなったじゃない」
若干顔を赤らめ、頬に手を当て溜息一つ。先程の出来事を引きずって、脳が興奮状態にあるようだ。
「こういう時はあの部屋に、」
「おやおや」
目を見開き、急いで振り向く。彼女しかいない筈の暗闇から、もう一つ声が聞こえた。ヤクシのものだ。
「眠れへんどすか?」
ランプの光が届く範囲に、漸くヤクシの姿を捉えることができた。着物の端折りを解き、フロックコートを脱いでいる。寝るための簡素な服装だ。
「や、ヤクシさん」
「いやあ、自分なかなか寝付けんで困っとったんや」
「はぁ……」
ロビーにいた時と同じく、人懐っこい笑みを浮かべて近づく。
「だから、話し相手になってくれへん?」
だがしかし、明かりがランプの光だけ故か陰影が濃い。何か含みのある笑みに、娘は背筋がひやりと凍った。
「―――ええ、構いませんけど」
それを気付かれぬよう気丈に返す。彼は何か怪しい。むくむくと育つ不信感を隠すよう、娘は思いついたことを口にする。
「そういえば、助手さんは何処に?」
「助手はん?寝とるけど。どうかしたん?」
悪手だ。娘は瞬時に悟る。
「いいえっ!少し気になったので!!」
「ふーん」
幸いなことに、それ以上の追及はなかった。もっと何か聞かれると思った娘は拍子抜けしたが、すぐ表情を引き締める。
「あ、眠れないのなら、図書室へご案内しますよ。私も丁度行こうとしてたところで、」
―――ゴトッ、ゴトッ、ガラガラガシャン!!!
突然、誰か争うような物音が響く。静まり返った館によく響き、娘は悲鳴を上げてその場に座り込む。
「な、何の音!!?」
「物が落ちたりした音やな」
至極冷静に返すヤクシ。つまらなそうに暗闇を見つめているが、娘はそれに気付かない。
「ま、まさか!!」
何かに思い至った娘は急いで立ち上がり、ランプを掲げてロビーに向かう。ヤクシなどもう頭の中にない。ただ、あることが気がかりで仕方がない。
「鍵はきちんとお父様が管理してるし、今の時間はメイド長がいるはずだから、」
廊下の突き当りを曲がればロビーの全容が見渡せる。そして今日は満月。ランプがなくとも月明かりで見えるはず。
漸く角を曲がったところで、娘はすぐに壁の裏に隠れた。本能が、見つかったら死んでしまうと警鐘を鳴らす。
息が荒くなる。汗と動悸が止まらない。涙が勝手に溢れてくる。心が逃げろと叫び続ける。
月明かりに照らされていたのは、熊の2倍はあろう大きさの化け物だった。
黒く、てらてらと光る皮膚。ボロボロの片翼。山羊を彷彿とさせる胴体。獅子のような顔で、コックの頭を咥えていた。
たった一瞬でよく観察できたな、と的外れな考えは、一種の現実逃避だ。
「何の音だ!」
同じくランプを掲げた主人と奥方が近寄る。娘は急いで唇に人差し指を当て、静かにするよう指示する。
「ロビーに、見たことのない化け物が!は、早く逃げないと危険です!コックがもう、」
「はい、静かにー」
ポン、と主人の肩に手が置かれる。ヤクシだ。
主人は飛び出しそうになった心臓を飲み込むように息を呑む。その様子に満足したようにヤクシは頷き、ロビーを一望できる場所に躊躇いなく躍り出る。
「あれは“厄”言います。人を喰って成長するバケモンや」
ヤクシを止めようと伸ばした娘の手は、何も掴めない。それどころか彼につられ、3人そろって出てきてしまった。化け物が血塗れの顔を此方に向ける。
「おーおー、大きいなぁ。どんだけ喰ったんやろなぁ、人を」
常の、飄々とした態度を崩さないヤクシ。
「ほな頼んだで、助手はん」
どこからかふわりと手摺に降り立つ助手。濡れたポンチョを乱暴にとり、ヤクシに投げつける。そうして露わになった背中を丸め、獲物を狙う猫の如く構える。
ゴキッ、骨が外れる音。
ゴリリッ、骨同士が擦れる音。
ぶちぶちっ、肉が破れる音。
これが蝶の様な美しい翅だったのならどんなに幻想的だったろうか。彼女の背中から蜘蛛の様な節足動物の脚が6本、肉を突き破って生える。1本1本が、成人男性の上背程度の長さだ。
時間にすれば5秒にも満たない変化だが、館の家族は恐怖で満たされ、時間の経過を誤認する。
「――――――!!」
バッと手摺から飛び降りる。一片の変化のない表情で、一片の慈悲も感じられない一撃を繰り出す。背中から生えた脚は正確に黒い化け物を貫き、化け物は人間に似た悲鳴を上げた。やられるものかと直ぐに助手を攻撃したが、助手はそれを読んでいたかのようにひらりと躱す。軽やかに着地し、脚に付いた血を払った。
「“厄”言うのは災害みたいなもんや」
化け物の体液が撒き散らされる。蜘蛛の脚がしなる。悲鳴が轟く。
助手はとても強かった。じゅくじゅくと音を立てて再生する化け物の肉を容赦なく抉り、攻撃の交差の間にどんどん圧していく。
「銃でも死なへんし、何ならどんな兵器にも対抗できる力がある。ほんま厄介やわぁ」
助手の攻撃に化け物の再生能力が追い付かない。蹄の生えた足を出口に向けるも、鉤爪の生えた脚がそれを阻む。
「……ッ、ヤクシさん!!!」
我慢のならなくなった主人が叫ぶ。
「何なんですか貴方は!!薬を売る人、ヤクシじゃなかったんですか!?助手さんは人ですらない!!一体何が目的で、」
「何やそんなこと」
静かに、無価値に、否と切り捨てる。
「どうでもいいでしょうに」
一際強い悲鳴が主人の絶叫を掻き消す。言葉が重い。化け物に感じた恐怖を超越するほどの恐怖が、体中を軋ませていた。
「“厄”には“厄”でしか対抗できない」
『―――だからってまあ、“厄”を使“役”してついでに“薬”売りだから“ヤクシ”ってな、くは、昔の俺は随分と洒落た言葉遊びをしやがる』
異国の言葉だ。聞いたこともない言語が家族の耳に届いた。ヤクシは故郷の言葉を用いたが、その意味を理解できるはずもない。
「ほなおおきに、これで終いや」
蜘蛛の脚が掲げられ、次の瞬間には化け物の頭に振り下ろされる。
ぐちゃりと、呆気ない音が響いて、化け物はゆっくりと塵になって消えた。あちこち飛び散っていた体液も同様に消え、数分もすれば何も残らなかった。
「よっと」
ヤクシは重力を感じさせない優雅な動作で手摺を飛び越え、華麗に着地する。手に持っていたポンチョをはたきながら助手に近づき、「お疲れさん」労いの言葉と共に頭を撫でる。
「“厄”が生まれるには条件があって、それを満たさない限り“厄”は生まれへん。ほら、いい塩梅の怨念があらへんと……なぁ?」
あ、と声を漏らしたのは誰か、あるいは家族全員か。
「ロンドン警察だ!大人しくしろ!!!」
月光と日光が入れ替わろうとしている中、館の扉を蹴破って数名の警官が突入した。拳銃を館の家族に向け、声高らかに宣言する。
「殺人、誘拐、違法薬物の取引、それらの重要参考人として署へ連行する!!」
娘が諦めたように息を吐き、がくりとその場にへたり込んだ。
◇
「いや~~、どうもおおきに!!」
「お疲れ様です、ヤクシさん」
若い警官がヤクシを労う。
「という訳で賞金!」
「…いつもの場所に3日後取りに来て下さい、というより雨の中待機してた僕らをもう少し有難がって、あ、ちょっと!」
話を最後まで聞かず、ひらりと手を振って助手の身なりを整える。
―――イースト・エンドから人を攫ったり、旅人を泊める振りして閉じ込めて……
―――会話の中でバレないよう、牢屋を図書室と呼んで……
―――肉を抉ったり、殺鼠剤を飲ませたりして……
―――館の従業員も同様にその行為に参加して……
「カメーリ、ちょっとこっち手伝って!」
「あ、はい!」
ヤクシと話していた若い警官が駆け足で館の奥に向かう。その様子を助手が横目で眺め、何か言いたげにヤクシを見つめる。
「ほな、行くで助手はん」
だがヤクシは気付かない振りをして、帽子を目深に被り直して出口に足を向ける。既に朝日は登り切っていて、解放された扉から眩しい光が差し込んでくる。
助手は目を細めようともせずその光景を映し、再び若い警官が向かっていった館の奥へと顔を動かす。表情は変わらず、何がしたいのか正直解らない。
「駄目やで」
ヤクシはきちんと理解したのか、助手の頭にポンと手を置いて行動を制止する。
「自分らの相手は“厄”だけ。人に関わったらあかん」
「あ、そうだヤクシさーん、っていないじゃないか!!!!!」
館の奥の死体を片付け終え、戻ってきた若い警官は絶叫する。毎回捜査に協力してもらっているとは言え、一応彼らも証人として残ってもらいたかったのだが。
今回も彼らがいなければ未解決のままだっただろう。日付の変わった深夜、警視庁に助手が突然窓をぶち破って侵入して手紙を託されなければ館の家族を疑うこともしなかった。
〈南の館 賞金リストNo.59 “厄”あり 騒音止むまで待機されたし〉
その“厄”の悲鳴が人間のものにしか聞こえずハラハラしたが、これにて一件落着ということでいいだろう。
「化け物の“厄”とそれを使役する“ヤクシ”ね…」
彼らの後ろ姿を思い浮かべる。
「ほんと、いい加減に、」
次に“厄”が現れるであろう場所へと休む間もなく進む彼らに向かい、一言。
「服装を統一しませんかね。和服にコートって、正直ダサいですよ、あれ」
馬鹿にされていることなどいざ知らず、ヤクシは太陽の下で朗らかに笑う。
「次行きましょ助手はん。“厄”はこっちの都合などお構いなしや!」
大勢が行き交う大通りを、人の目線も気にせず歩く。軽やかに裾が舞い、楽し気に足が踊る。助手はそれを見つめるだけ。ただ音も立てずに、淑やかに。
霧の都ロンドン。
昼なお暗く、華やかなヴィクトリア朝とは相反する空気。しかし久方ぶりの晴れ間に人々の心が喜びを歌う。
2人の極東人が光をいっぱいに受け止める。人を喰らう“厄”と、使役する“厄師”。彼らの目的や行き先など誰も知らず、つまるところ彼らは依然謎のままだ。
でも、それでも。
「薬も売らなあかんしなぁ、ええな?」
助手が頷き、ヤクシは満足そうに笑みを深める。
次の“厄”を払うため、今日も元気にロンドンを駆けるのだ。
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