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 シュン、という名前しか知らない。  あとは身体のことだけ知っている。ふつうの仕事じゃなさそうな、あまりに立派な肉体と無駄のない動きと、セックスを熟知している指のことなら。 「呼んだか」 「なんでもない。明日はどうするんだ?」 「帰る。仕事だ」  彼はゲイで、おれもそうだけど恋人同士ではない。肉体関係だけのつながりで、お互いそれを了承している。  シュンは、おれが引っ掻いた背中を指で撫で、うんざりとした顔をみせる。肩をすくめてみせると、あからさまにため息をつかれた。 「珍しい。こっちにきたときはいつも泊まっていくのに」 「部下と約束がある」  部下。おれは少し笑った。シュンも社会生活を送って部下なんか持っちゃってるんだな。当たり前のことだけど、フルネームすら知らない間柄だからなんだかリアリティがない。 「ま、おれも後輩と約束があるんだけどな」  シュンが鼻を鳴らした。理由は分かっているが、おれは無視した。 「遊び相手、だいぶ減らしたんだってな」  無駄話はお互い好まないので、こういう質問をすることは稀だ。だからシュンも油断していたのだろう、少し無防備な顔で「忠告されてな」と返事した。 「おれが遊び相手に刺される夢をみた、と」  笑った。そんな与太話を信じるなんて、余程相手を信頼しているか特別かどちらかだ。 「たしかに。で、おれもセフレからリストラか」  立ち上がって下着を身につける。シュンはベットから起き上がり、後ろからおれを抱きしめた。 「ミノリは残留。嫌なら考えるがどうだろう」 「異議なし」  おれがクスクス笑うと、シュンは耳元で満足そうなため息をつく。 たくましい腕、厚い胸板、低くて魅力的な声。シュンはゲイの間で伝説的な人気を誇る「タチ」である。彼に抱かれたら死んでもいい、と思っているネコはたくさんいる。おれはいま死ぬなんてまっぴらごめんだけど。  どうせ死ぬなら、和泉にさわってから死にたい。  頬に、指でふれるだけでいい。あんなに側にいたのに、一緒に風呂に入ったことも同じベッドで眠ったこともあるのに、一度も触れたことがなかった。このままじゃ死ねない。 「お前の顔は好みだ。身体の相性もいい」 「おれも、シュンの顔と身体は好きだ」  耳を舐められて震えた。さっきまで苦しいほどのものが埋められていた場所が、指でいじられただけで甘く疼く。 携帯電話が鳴った。手を伸ばし、画面を覗き込む。後輩、つまり和泉からのメッセージだった。 「七瀬先輩、いまどこですか?旅行のお土産わたしたいんですけど、会えますか」 和泉。 和泉に会える。 嬉しいけど、旅行の内情を知る者としては気が滅入った。 「女といった旅行の土産を貰って、話を聞いて、どれだけお前はマゾなんだ」 シュンが背後で笑った。それからおれの腰を掴み、なんの遠慮も躊躇もなく挿入した。  和泉とあっているときはいつだって踊り出したいぐらい楽しい。ミュージカル映画だと楽しいシーンで主人公が歌い始めてそのまま踊ったりするけど、まさにあんな気持ち。天にも昇る心地ってやつ。顔には出てないらしいけど。 「映画どうでした?」 「最後がイマイチだったけどほかは良かった、ダンスと歌が下手くそだったけど音楽が良かったな」  和泉が甘い目元を細めて笑う。 「先輩ほんと嘘つかないですよね」  そういうところ好きですけど、と和泉がさらりと言う。心臓がギュッと掴まれたみたいになって、おれは俯く。その言葉に深い意味はないと分かっているのに。 「雨が降ってきましたね、最近天気悪いな」 のんびりした話し方。清潔感のある、柔らかそうな茶色い髪に雨の雫が点在している。 「洗濯物干してきたのに」 「相変わらず天気予報見ないんだから」  和泉とは大学のフットサルサークルで知り合った。おれはどちらかというと愛想が悪いし、そんなに親しみやすいタイプの人間ではないと思うのだが、気の利かないおれの返事にもめげず、あいつはずっと話しかけてきた。大会前の特訓もふたりでしたし、お互いの家をしょっちゅう行き来した。 「七瀬先輩、きいてますか?」 「ごめん、ぼーっとしてた」  大学の時はいつも一緒にいた。そのせいで、大学3年まで和泉は彼女とか恋愛とは無縁だった。変わったのは―― 「あ、電話だ。ごめんなさい、ちょっと失礼します」  彼女だ。濱沙也加。  可愛いが気の強いミスキャンパスと付き合い始めてから、和泉は変わった。当たり前だが、土日に会う回数は劇的に減り、いまは仕事帰りに一緒に帰って、たまに飲みに行く程度だ。  七瀬先輩とずっと一緒がいいんです、と就職先まで追いかけてきた和泉は、おれの気持ちに応えてくれることなんて、一生ない。 「さやかがつまんないことで怒って、ずーっと機嫌悪かったんですよね。なんで女の子ってあんな簡単に気分変わるんすかねえ...」 映画を観たあと、旅行どうだった?と訪ねたのはおれの方だった。やめておけばいいのに、つい聞いてしまって今気が滅入っている。 「もういい」  まだ話している和泉を遮って、おれは言った。和泉はびっくりしたみたいな顔でおれをみて、それから目に見えてしょんぼりした。 「つまんない話してごめんなさい、あの…」 「もう一緒に帰んのやめよう。おれと会う時間も彼女に割いてやれよ」  学生じゃねーんだし。  そう呟くと、和泉は目を見開いたまま固まった。 「…おれ、七瀬先輩を怒らせるようなことしちゃいましたか?自分の話ばっかで、あの」  違う。和泉に気を使わせたかったわけでも傷付けたかったわけでもない。  苦しくなって、首を振った。自分がこの関係に耐えられなくなっただけで、和泉は何も悪くない。 「嫉妬してんのかもな、みっともないけど。おれはお前みたいにモテねえし」  おどけてみせると、和泉は急に真剣な顔でおれをみつめた。 「それは、七瀬先輩が自分を知らないだけですよ」  意味を持たせるような言葉に溜息をつく。駆け引きも探り合いも苦手だ。 「べつに、おれと会わなくなってもお前はなにも困んねえだろ」  元から愛想が良い方じゃないのに、顔に出すまいとすると余計につっけんどんな物言いになってしまう。 「こまるとか、困んないとかじゃなくて、七瀬先輩と話さないのが嫌です。会えないのが…毎日、少しだけでもお話できるの楽しみにしてるのに」  お話、という言葉は子供っぽくてバカバカしいはずなのに、和泉がいうと可愛く聞こえる。こういうのが惚れた弱みというやつなんだろう。 「だからさ、そういうの、彼女でいいじゃん」  立ち止まったのは、腕を掴まれたからだった。五大陸のスーツが憎いほど似合っている長身の和泉は、平均的身長のおれを強い目で見下ろした。 「嫌です。七瀬先輩と会うのも話すのも、おれの大事な日常なんです」  カチンときた。なんでおれはお前の滞りない日常のために辛い思いをしないといけないんだよ?勝手にルーティンに組み込むなよ。 「おれも付き合ってるやつできて、そっち優先したい」  どうしてそんな嘘をついたのか、自分でもわからない。とっさに口をついて出た。 「相手男だけど。おれ実はゲイなんだよな、女に興味ねえの」  ほら引いたか?さあ、酷いこと言ってお前のこと諦めさせてくれよ。  こんな道端で長い付き合いの後輩にカミングアウトすることになるとは思わなかった。しかも通勤経路。いくら人通りの少ない道でも早まった、と後悔した。  しかし、言葉はもう外に出てしまった。元には戻れない。  和泉は驚いた顔のまま固まっていた。そこへ、畳みかけるように言い募る。 「お前に話したことのある恋愛経験だって、相手は全部男だし。ゲイだってこと隠してお前と友達ヅラしてたんだ。気持ち悪いだろ」  掠れた声で、和泉が「どうして」と言った。 「どうして、いままで言ってくれなかったんですか」  そんなの決まってる。お前に嫌われたくなかった、気味悪がられたくなかった、せめて友達でいてほしいと思った。全部だった。  言えるわけがないので、おれは目を細めて和泉をみつめた。よく、怖いけれどきれいな目だと言われる切れ長の目を、ひたりと和泉の眼に合わせて。 「先輩、それをきいてもおれは何も変わりません。だから会わないなんて言わないで」  お願い。  そう懇願した和泉の眼は、あいかわらず甘くてきれいな色をしていたから、おれは絶望した。  きいても何も変わらないなんて地獄だ。――少なくともおれにとっては。だってそれは、『取るに足らない』ということに他ならないだろう。 「おれは変わるんだ。和泉に嘘をついてた。おれにも恋人ができた。ちょうどいい機会だろ、もう、やめようぜ」  喉がひりひりした。傷ついたような目に期待しそうになる自分が嫌で目をそらして視線を落とす。うつむいたまま何度か頷いた。そうだ、それがいい。もっと早く、その決断ができればよかった。 「じゃあな。結婚式には呼んでくれなくていいから。仕事の話はいつもどおりで頼むぜ」  先輩、と叫んだ声に背中を向けて、おれはその場を逃げ出す。言葉のとおり、脱兎のごとく。  あれからひと月経った。和泉の電話もLINEもブロックして、体重が3キロ減った。仕事だけは良い調子で、営業をかけていた3社から同時に契約に前向きな返事をもらった。あとは小さなクレームが数件入っていたけど、さすがに28にもなればそれなりの対応ができるようになる。ただのサッカーバカ、と先輩に揶揄されていたのが懐かしいぐらい、心を殺し、丁寧にクレームを処理した。 「今日フットサル来るか?対戦相手はなんと、国家公務員の有志チームだぜ」 「来ましたね。ぶちのめしてやる」  おれの悪態に、先輩が笑った。おれたちの会社は海保の救助スーツなどに使う特殊なゴムの製造をしていて、特許をいくつか持っている。規模も利益もそれなりの企業だが、近頃技術者が高値で引き抜かれることが相次いでいて、安定からはほど遠い。 「ほどほどにしろよ。大事なクライアントなんだから」  今年度は夏のボーナスが減額された。おれは独身でローンもないからいいけど、家族のいる先輩はとても大変そうだ。そういうことがあるから、どうしても『公務員様』に対する対抗意識が生まれてしまう。 「え。まさか、海猿とやるんすか」 「そのとおり、しかもオレンジだ」 「うわ~、特殊救難隊?マジすか勝てるかな」  おまえのそんな弱気、初めて見た、と先輩がまた笑った。頼むぜセミプロ、と言われてぐっと黙り込む。セミプロ。そんなところまで、おれは行けていない。 「セミプロって」 「高校のときは国立行ったんだろ?充分すごいじゃないか」  行った。そしてボロボロに負けて、ピッチの上で泣いた。負けた事に悔しかったんじゃなくて、自分の限界を知って哀しくて泣いたのだ。おれには、プロになるほどの才能がなかった。あの日ハットトリックを決めておれにサッカーを諦めさせた相手チームのエースは今、プレミアリーグで活躍している大スターだ。 「こっちのメンバー誰すか」 「行ってからのお楽しみ」  変な含みを持たせた先輩の声に違和感を覚えたけど、追及はしなかった。あとから、それを強く後悔した。きいていたら行かなかったのに。  フットサル場のロッカーで着替えを終えると、声を掛けられた。 「七瀬先輩」  ユニフォームが全然似合っていないのは学生の頃から変わっていない。  今一番会いたくない男、和泉が、ピッチの上でこどもみたいな顔で笑っていた。そしてもっと驚いたのは(正直心臓が止まるかと思った)、その後ろで、驚きの顔のまま固まっている、セフレの『シュン』がこちらを見ていたことだ。  気もそぞろなままピッチの真ん中に整列する。  無情なホイッスルの音が、ゲーム開始を告げた。
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