第2話

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第2話

 時は少しさかのぼり――年末年始休暇に入る二日前のことだった。  年明けにリリースされる新アプリのウェブ広報の内容を、和紀と二人、小会議室で考えていた。 「なぁ斉藤、このアプリ、正直どう思う?」  家事にまつわるライフハックとそれに関係する商品のクーポンやポイントカード、家計簿などを連動させた主婦向けアプリだ。大手スーパーやショッピングモール、コンビニなどと提携しているのだが、ゆくゆくは地方スーパーも網羅していく予定らしい。 「既存のアプリの二番煎じだけど……でもインターフェースは使いやすいし、今までのアプリにない機能もあるよ。……ほら」  今さらそんなアプリが受けるのだろうかと疑念を隠さない和紀に、明日美は笑いながら社内のスマートフォンに仮インストールされているリリース前のアプリをタップし、慣れた調子で新機能を使いこなしてみせる。  その様子を見て、和紀は感心したように目をぱちくりとさせる。 「……斉藤って、どんなものでも必ず長所を掬い上げるよな。そういうとこ、すげぇいい」 「え……そう?」 「おまえが人の悪口言ってるのとか聞いたことないし、一緒に仕事してて、心地いいっていつも思ってる」 「でも、篠原は主任になったし、いずれは社外広報じゃなくてIR広報に行きたいんでしょ? やっぱり広報の花形と言えばIRだし」  IR広報は己の腕次第で会社の価値を高めることができる仕事だ。それは社外広報も、またつきつめていけばどんな部署でも同じであると言えるが、やはり株主や投資家を直接相手にした仕事は魅力がある。  和紀自身はIRを目指していると言ってはいなかったが、同僚は皆そうだと思っていた。実際彼は株式や投資の勉強をしていたし、アセットマネジメントの本を読んでいる姿を見かけたこともある。  明日美も上昇志向がないわけではないが、今目の前にある仕事を全力でこなすので精一杯だ。人の足を引っ張ったり悪口を言っている余裕などまったくない、というのが実際のところだった。 「――とりあえず、たたき台はこんなところでいっか」  社外向け文章を一通り書き終えた二人は、一息つく。 「あと一件……っと、あ、もうこんな時間」  時間を見ると、もう八時だ。そう自覚すると急にお腹が空いてきた。 「あー……じゃあ俺、夕飯買ってきてやるよ。和膳楼(わぜんろう)の弁当でいいか?」 「あ、うん。ごめんね」 「いいって。おまえ昨日も一昨日も遅くまで残業してたんだろ? 少し休んでおけよ」  そう言って和紀は財布を持ってひらひらと手を振りながら小会議室を後にした。 「はぁ……優しいなぁ……篠原」  明日美はぽつりと呟く。  彼こそいつも、明日美の長所を掬い上げてくれる。それが本当に嬉しくてたまらない。  彼女がここ数日遅くまで残業をしていたこともちゃんと把握してくれて、労ってくれる。人のことをよく見ているのだ。  そもそも明日美が彼を好きになったきっかけも、和紀のそういったエピソードからだった。  二年前に新しい仕事を任されたのだが、それは有名スポーツインストラクターが監修したゲーム性のあるエクササイズアプリをクリアし、ウェブサイト用の記事にするというものだった。  しかし悲しいかな、明日美は絶望的な運動音痴で、アプリが指示する通りのエクササイズがどうしてもできなかった。でも仕事として託されたからには他の人には任せたくなくて、会社での昼休みや帰宅後に人知れず練習をした。  何度も同じプログラムを繰り返し、締め切り二日前にようやく、人並みとは言いがたいがなんとかこなせるようになり、コンプリートできた。そして記事を書くために残業をしていると、和紀が小さな箱を手にやって来た。  彼はそれを明日美の目の前にそっと置いた。 『? 何それ?』  わけが分からず尋ねるが、和紀の方は何もかも分かっているという表情で言った。 『頑張ったごほうび』 『え……?』 『斉藤、運動苦手なのによく頑張ってたもんな。だから、俺からごほうび。……アンリ・ベルトワーズのミルフィーユパイ、好きだろ?』 『……うん』  この瞬間まで、明日美は彼のことを『イケメンで仕事ができてすごい同期』くらいにしか思っていなかった。周囲がどれだけ騒いでも、あくまで同僚でしかないと一線置いていた。  今回の仕事は明日美にとっては苦手分野をもろにぶつけられたようなものだったし、時間を気にせずただ走るだけならともかく、指示された動きを指示された時間内でクリアしていくというのは、運動音痴には正直つらかった。  そして明日美は当然ながらエクササイズの練習をしていたことを誰にも言ったりなどしていない。アンリ・ベルトワーズという有名洋菓子店のお菓子が好きなことも、かなり前に同期の飲み会でポロッと口にしただけだ。  けれど和紀が彼女の努力を見てくれて、そして労ってくれて……苦労が報われた気がしたし、好みを覚えていてくれたことが、すごく嬉しくて――好きになるのに十分だった。  それ以来、ずっと片想いを続けている。  一時は和紀を諦めようと、他の人とつきあってみたこともあったけれど、どうしても好きになれなくて。キスすらできずに別れてしまった。  明日美は長テーブルの上につっぷした。 「どうしたら……諦められるのかな……」  そう呟いた後、明日美は目を閉じた。
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