『訪問者』

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その日、俺はソファで新聞を読んでいた。 静かな午後だった。聞こえるのは時折外で駆け回る近所の子どもの声程度だ。……チャイムの音が鳴った。廊下にいた妻の洋子がインターホンに出た。 「はい。……はい」 洋子が訪問者となにか話してるのが聞こえる。やがて彼女は書斎にやってきた。 「あなた。同じ小学校の土谷邦彦さんて方が訪ねてこられたけど」 「邦彦が?」  俺は呆然として、玄関に向かった。覗きガラスを見てから、ドアを開けた。 外から風がビュッと入ってくる。土谷邦彦が、静かに足を踏み入れてきた。 「ひさしぶり」 「邦彦! 何年ぶりだ?」 俺たちは嬌声をあげ肩を叩きあった。 「ずいぶん経っちゃったね」  と彼は微笑しながら言った。 「ま、上がってくれよ」 ……しばらくして、俺たちは応接間のテーブルを挟み、話を始めた。邦彦は特に変わりはないようだった。 「……あの頃はいろいろあったな」  と彼は昔話の途中で目を細めて感慨深げに言った。 「俺らは本当に悪ガキだったよな~」  俺も苦笑した。 「ああ。いたずらばかりしてた……」 会話しながら、俺は彼と最後に会ったのがいつか思い出せないでいた。同窓会に、彼は来たことがあっただろうか。よく覚えてない。だが彼の笑顔は小学生の頃のままだ。 「滝田、煙草を吸っていいか」  邦彦が尋ねた。 「ああ良いよ。ここに灰皿もある」 「おまえは吸わないのか」 「ああ。二年くらい禁煙に成功してる。でも、おまえは吸っていいよ」 「……じゃ、お言葉に甘えて」 邦彦が煙草を吸いだした。 「実は。吸うの十年ぶりなんだ」 「え? 十年も?」 「ああ」 そう言い、彼は吸殻を灰皿に捨てた。……俺は、自分がさっきから緊張していることに気づいた。 「どうした、滝田」 「いや、別に……」 俺は、彼に微かな恐れのような感情を抱いているらしい。ただ、それがなぜかわからない。昔、彼になにかひどいことをして、それを忘れてしまっているのだろうか? 「滝田、おまえには算数の宿題を見てもらったことがあったな。あれは本当にありがたかった」 ……もしかして、彼は俺に仕返しかなにかをしにきたのだろうか? 「修学旅行も楽しかったな。お寺で走り回って坊さんに怒られたりもしたっけ」 「なあ邦彦。今日はどういう用事でここに……」 「え?」 「いや、その、どういう、その……」  彼はやはり微笑んで答えた。 「ずいぶん会ってないなあと思って。ただなんとなくだよ」 「そうか……」 俺は、彼が新しく吸い始めたタバコの先の火をぼうっと見つめていた。……なにか、大事なことを思い出せないでいる。 「なんかこう、刺激的な話でもしようか?」  と彼が言い出した。 「刺激的な話?」 「……こういうのはどうだ。自分が今までしたことで一番後悔していること、とか」 「後悔してること?」 「ああ」 「悪趣味だな」 「ああ。……じゃんけんしようぜ」 「え?」 「負けたほうから話す」  俺は戸惑っていた。 「え? え?」 「じゃん、けん……」 俺はあわててパーを出した。 負けた。 邦彦はにやりと微笑む。 「さあ。一番後悔してることを教えてくれ」 「いきなりだな……そうだな、高校の頃、同じ女子に五回告白して五回とも振られたことかな」  邦彦が笑いながら言った。 「ストーカーって言わないかそれは」 「……そう言うかもな。今だったら」 「あのさ。それは一番じゃないよな。ほかにもっと後悔してることあるだろ」 「……ないよ」 「いや。……おまえはあの日俺を止められなかった」 「あの日?」 「ピーちゃんのことだ」 8d84d58f-d751-4ec3-9b01-1cadc41d8d59 俺はごくっと息を飲んだ。 ある記憶が鮮明に蘇った。……ピーちゃんとは、小学校の教室でみんなで飼っていた小鳥のことだ。 あの日、小学校からの帰り。俺と邦彦はランドセルをしょって歩いていた。 邦彦が人気のいないところでこう話しかけてきた。 「あのさあ~」 「なに?」 「教室に戻らないか?」 「え? なんで」 「ピーちゃんをさあ」 そこで彼は耳を近づけて言った。 「……殺さないか。一緒に」 「え? ピーちゃんを? なんで?」 「うーん、理由とか別にないけど。……でも面白そうじゃん? なんか」 「……は? なんで?」 「……うーん。わかんないならいいや。じゃ、また明日な」 分かれ道で邦彦は違う道を歩いて行った。俺はただの冗談だと思って特に気にしなかった。 次の日。教室に入ると、みんな鳥かごの周りに集まっていた。 泣いている子もいた。 教師が鳥かごのそばで、手を広げ、生徒たちを鳥かごから遠ざけようとした。 「みんな、見ないで、席について! これは野良猫の仕業です。猫の毛が落ちているし……」 鳥かごの底でカナリヤの死骸が横たわっているのが教師の陰から微かに見えた。 あの日のことを回想しながら、俺はしばらく沈黙していた。 「わかってたんだろう? あれが俺の仕業だったと」  と邦彦が言った。 「ああ。偶然にしちゃできすぎだったからな。それに落ちてた猫の毛は、おまえんちで飼ってた猫と同じ色だった」 「でも、おまえはそのことをだれにも言わなかった。……なぜだ」 「……おまえが友達だったからだ」 「友達なら……止めてほしかった」 「は?」 「俺は、ピーちゃんを殺すのをおまえに止めてほしかった。または、おまえがこのことをだれかに言ってくれるんじゃないかと、密かに期待していた」 俺は沈黙した。 「……そうすれば、俺はだれか大人に罰してもらえたかもしれない」 「おまえ、俺を責めるのか?」 「その逆だ……滝田。ごめんな」 俺はなにも言わずに邦彦を見つめていた。 「おまえに長い間重荷を背負わせてしまった」 「いったい何しに来たんだよ、今日は」  俺は声を荒げて言った。 「おまえに謝りにきた」  彼はうなだれている。 「……はやく帰ってくれ」 俺も下を向いた。邦彦は立ち上がり、ベランダに出た。 「じゃあな」 邦彦が寂しそうに微笑する。 「邦彦!」 彼はベランダの手すりを乗り越えて下に落ちていった。俺は叫びながらベランダに行き、見下ろす。 そこには、暗闇が広がっていた。 俺はソファの上で跳ね起きた。 ……なんだ、夢か。 いつもと変わらない休日の昼下がりだった。外から時折小鳥や子どもたちの遊んでいる声が聞こえる。 なんとなく寂しさを感じ、俺はテレビをつけた。料理番組をやっている。 そばの棚の中から、俺は小学校の卒業文集を持ち出し、ページを広げる。 ドアが音を立てて開いた。 ぎょっとして振り返ると、洋子が買い物袋を持って立っていた。 「ただいま~」 「なんだ、驚かすなよ」 「別に驚かしてないわよ」 洋子が、買い物袋をテーブルに置いて居間を出た。 へんな夢だった。 だいたい、あいつがここに来れるはずがない。あいつが今どこでなにをしているか俺は知っている。 あいつは元気だ。ただあいつはここに来ることはできない。 絶対にできないのだ。 洋子が再び居間に入ってきた。 「ちょっと、禁煙してたのにまた吸い始めたの?」 「は? なんで」 「応接間の灰皿に、吸殻があったわよ」 洋子が、吸殻の入った灰皿を持って俺に見せた。 俺は言葉を失った。 テレビがニュース番組に移った。アナウンサーが語り始める。 「今入ったニュースです。法務省が発表したところによると、二時間ほど前に土谷邦彦死刑囚の刑が執行されました。土谷死刑囚は小学生のころ小鳥を殺したことをきっかけに、猫や犬を殺すようになり、二十代になると、児童を誘拐し、殺害しては山林に遺棄する犯行を続けていました。被害者数は十六人にも達し、日本犯罪史上もっとも凶悪な事件の一つとして、今でも記憶されています」 俺はテレビに映る邦彦の顔写真を見つめ続けた。 「あなた……?」 「二時間前……やっぱり来てたんだな」 俺の目から流れる涙がいつまでも止まらなかった。 邦彦、ごめん。止められなくて。 俺は、小学校の卒業文集に目をやった。 生徒たちの「将来の夢」の欄で、皆、野球選手、タレント、などと各々のなりたいものを書いている。 邦彦だけはこう書いていた。 「自分の中のバケモノと戦えるようになりたい」 と。                 (了)
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