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熊楠三星は自分を語らない。それは自らの努力を、他人にも強いずのスタンスから成る。だから、これは後になって調べたことだ。
彼女の人生には、出生からして常に苦難が待ち構えていた。母親は産まれた時に亡くなり、事業に失敗した父親は蒸発。僅か5歳で孤独を味わっていた。
そんな恵まれない身から全てを手にする為に血の滲む努力を重ねていた。親戚を盥回しにされ、その上でひたすらに勉学に打ち込んだ。
あの分厚い面の皮の裏には、妬むことしか能のない者の想像を遥かに超える苦難の連続で成り立っているのだ。
私の人生において、初めて土を着けたこの女は、今まで見たことのない人種だった。身なりの話ではない、その魂の有り様が、いたく新鮮に映った。
「…あんた、名前は?」
初めての敗北を味会わせた、その女の面構えは。私を嘲ることも、憐れむこともしなかった。
それはただ純粋に、気になって声を掛けた、という顔だった。
「…? どうしたの、ボケッとして」
「え、私のことを、月神の名前をご存じない? あの、有名な──」
「は? 知らないから訊いてるんだけど」
誰もが私のことを知っていた。無論、その名前、外側にある看板だけで、中身など知る者はいない。皆看板に媚を売る輩ばかりだ。
「つか、肩書き? そんなのどうでもいい。わたしはあんたのことを訊いてんの。当たり前でしょ?」
しかし、彼女は私という看板でもなければ、その金に集る訳でもない。端から見れば無礼と罵られるだろう姿勢は、しかして純粋に私という個人へと向き合っていた。
そのお世辞にも綺麗とは言い難い、しかし毅然とした立ち姿と、強い意志を秘めた焔のような瞳を、私は尊ぶべきだと思ったのだ。
だからこそ。私はあの女を化け物とは呼ばない。対等の人間、いいえ、この生涯を掛けて越えるべき壁なのだと、その時確信した。
「…音女」
「あ?」
「月神音女よ。よろしく、熊楠さん?」
穏やかに私は手をさしのべる。が、その手はにべもなく払いのけられた。
「…何か違う」
「え?」
何が違う? 首を傾げる私に向け、訝しい様子で口を開く。
「この間見たような、ギラついた雰囲気がないのよ。あんた、まだ猫被ってるよね?」
「…へっ?」
我ながら間抜けな声が漏れた。それを受けてか、可笑しそうな顔をする。
「変な話、あんたはわたしと同じ匂いがするのよ。…性悪、というか、人間嫌いの匂い。能無しのアホにナメられるのが死ぬほど厭な、プライドの塊っていう」
「……」
…絶句。図星を突かれたというのに、不思議と腹が立たない。いや、やっぱり腹立つ。流石に性悪呼ばわりは聞き捨てならない。
「…ゴアイサツねぇ。ここぞとばかりにマウント取り?」
「あー、いや。んな不毛なやり取りはパス。間に合ってる」
妙に実感の籠る言葉だった。一旦仕切り直すつもりか、熊楠三星は咳払いをする。
「で、また失礼なこと言うようでナンだけど、あんた性格最悪でしょ? 周りの人間はゴミクズ同然に見える、極悪腹黒御嬢様って感じ」
「……あ? 喧嘩なら買うわよ?」
思わず威圧気味の声が出てしまった。高貴さなどドブに捨てたような言動と態度を受けて、彼女は一瞬だけ俯いて──、
「──プッ、アッハハハハ!」
予想通りだったのか、将又それ以上だったか。とても可笑しそうに、涙まで流して破顔していた。
「な、そんなに嗤わなくても…!」
「アッハハハ…、いや失敬。馬鹿にするつもりはなかったんだ」
お腹を押さえる程に笑い転げるその姿は、やはり私に向けたヘイトは微塵も見受けられない。そして、笑いが治まると、急に真面目な顔つきに変わる。
「いや、本当に。あんた…いや。月神音女。オタクとは仲良くなれそうだ」
そう言って、今度は彼女の方から手をさしのべる。私は、その手を──、
「──ふん。出来るもんなら、やってみなさいよ」
「いいね。わたし好みの、クソ女の反応だ」
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