0人が本棚に入れています
本棚に追加
──あの日のことは忘れられない。ホテルのホールを貸し切って行われた披露宴パーティーが行われていた。
…はっきり言って、居心地の悪いなんてものではなかった。お人形さんのフリをするのが、こんなにも辛いと感じるようになったのが不思議だった。
仲良しアピールをしようとする婚約者が肩に触れるだけで吐きそうになる。鼻持ちならない、という言葉が服を着て歩いているようなヤツだ。気分が悪い。
そんな地獄のタイムが、ピークを迎えようとしていた。婚約者と父が壇上に上がり、自分の持論をベラベラと語る。
その添え物としては私は居る。心臓が止まりたがる位に、その場に立つことが耐えられない。
「…かはっ。笑わせないでよ、ボンクラ共が!」
啖呵と共に現れたのは、悠然とした、しかし怒りに満ちた面持ちで、単身殴り込みをかけた三星だった。
騒然とする空気の中、三星は集る警備員をスルリと抜けて、風のようにホールの壇上へと駆け上がる。
そして手始めに隣にいたクソッタレの婚約者を壇上から蹴り落とし、マイクをぶんどって私を抱き寄せると、さながらロックスターのように宣言する。
「どうも。金だけ持ってるクズの皆さん。そこで小綺麗にしている月神音女さんの御学友でございます」
そこからは、完全に彼女のステージだった。殺到する貧乏人を非難するアホ共と、ついでに尻餅ついた許嫁に向けて、
「早速で申し訳無いんですが。この子これから予定があるもんで、お借りいたします。本人の承諾は後から頂く所存です」
「なっ、そんな勝手許されると思うのか! 庶民は引っ込んでいろ!」
「るっせえぞ青瓢箪が! ド三下がこの女にベタベタ触わんな、失せろ!」
「なっ…!?」
「だいたい、てめーみてぇなヒョロガリが、あの高飛車で泣き虫で上から目線で、あと負けず嫌いで、そんでもって誰よりも誇り高いクソ女に! 見合うわけないでしょうが! 節穴か、オタクら!」
とまあ、その場にいた連中を散々こき下ろした挙げ句、私の手を引いて逃げる始末だった。
当然、婚約者一同や披露宴の関係者全員の面目は丸潰れだった。私としては、ざまぁみろというしたり顔を隠すのが精一杯だったが。
とはいえ流石に逃げられるものではなく、三星は私と逃走劇を一通り楽しんだ後、潔くお縄についた。
本来なら警察でこってり絞られるところを、私が独断で金を積み、引っ張り出した。勿論、恩を売るような意図はない。
雨が続く、その翌日。向けられる白い目を無視して、彼女を自宅に招いた。どうしても、確かめたいことがあったからだ。
「…どうして、あんなことを? あんな真似すれば、貴女の経歴に傷だってつくでしょうに…」
その問いを受けた三星は、キョトンとした顔を浮かべていた。
「んなの当たり前でしょ。やりたいからやった。最近ひっどい面してたよ、音女」
笑顔を見せて、私の名前を初めて呼んだ彼女の瞳に、吸い寄せられていく。
「…ねえ、もうひとつ聞いても?」
「何を?」
──これは、間違っている。彼女は、越えるべき壁だ。絶対に届かない理想で、永久に追い続ける存在だ。
そんな存在に、こんな感情を抱くのは。それでも、一度開きかけた扉からは、際限なく溢れてくる。
「…お慕いしています。そう言ったら、笑うかしら?」
──雨の音が煩かった。それに掻き消されない程に、胸の奥が煩かった。
「ごめんなさい。忘れて──」
「…笑うわけないでしょ」
──唇が触れる。言おうとした、その先を遮られる。
「本当に?」
「本当だよ」
「高飛車で泣き虫で上から目線のクソ女よ、私?」
「そのとおり、わかってんじゃない」
「なら、どうして?」
「…化け物に、常識なんて説かないでよ?」
──その言葉を最後に、シルクの上で、また私と彼女の唇はひとつになる。熱で融けた氷のような一体感が、確かな繋がりを感じさせる。
…胸の奥の化け物は、未だに蠢いている。目の前の女の破滅を望み、いつかこの白磁の肌を突き破って出てくるのだとしても。
それまでは、この繋いだ手と、明るい瞳から伝わる熱を、刻み付けていたいのだ。
最初のコメントを投稿しよう!