1.豹変した妹②(怖さレベル:★★☆)

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1.豹変した妹②(怖さレベル:★★☆)

「何をしてたの」 「あ……えっと……これは……」 血の気の引いた顔で、ムリヤリ笑みを浮かべて振り返りました。 「ご、ごめ……」 軽く謝ろうと見た妹の顔に、思わず言葉が途切れました。 「ごめん? ごめんってなに。何をしたの。ねえ、お姉ちゃん」 完全に瞳孔が開ききり、ぽっかりと開いた口からは、 平坦でありながらも怒りのこもった声が機械のように流れだしたんです。 「だめっていったよね。失敗作だから見ないでって。どうして、なんで見るの」 「あ……それは……」 「なに。言い訳なんて聞かない。あたしの絵を見たんでしょ。あの、あの絵を」 故障したテレビのような、無機質で音程の変わらない声。 ふだんの妹とはあまりにもかけ離れた姿に、 じりじりと後ずさりました。 なにか言わなくては、と咄嗟に口から出たのは、でまかせのお世辞でした。 「い、いい絵じゃない。す、素敵よ」 精一杯の笑顔を浮かべながら、脂汗まじりに絵をほめました。 「き、綺麗じゃない、この色。  し、失敗作なんかじゃなくて、いい作品じゃない」 「…………ち」 妹は、ガッと両手で自らの頭を掻きむしるかのようにつかみました。 「ち、ちちちちがう。こんな、こんなの、作品じゃない、ない……」 「ち、ちょっと、大丈夫?」 あまりの様子に、今までの怯えがすっとんで、心配の方が勝りました。 妹は、近寄る私から逃げるようにして、 一歩、二歩、後ずさりました。 「ああ、ああ、おかしい。なんで、どうして……あたし、は……」 「ねえ、何を言ってるの? ちょっと」 「いや、だめ、あああぁっぁあ」 ギリギリと頭を掻きむしり始めた妹は、 どう見ても正常な状態ではありません。 これはもうどうにもならないと、慌てて携帯で救急車を呼びました。 「ぎ、ぎい、ぐう……」 「ねえ、しっかりしなさい!」 救急車が来るのをまつ間も、妹の様子は変わらず、 もはや意味のないような単語を漏らすばかりです。 その場にうずくまり、 ぶつぶつと何かをつぶやいている様子はいっそ異様で、 まるで何かにとりつかれてでもいるかのような――。 「……絵、絵の具」 そう、妹が異常なほど執着している、ムラサキ。 ハッとして、絵の周囲に散らばっている油絵具を見回しました。 バラバラとあちこちに乱れ飛んでいる絵の具の中に ――ありました、あのムラサキの絵の具です。 使いつくされ、ほとんど空のようなその絵の具。 これが諸悪の根源か――と思うと、 いてもたってもいられず、それをむんずと掴みました。 「……お姉ちゃん、なに、してるの」 ひたり、と。 うずくまり、混乱していた筈の妹が真後ろに立っていました。 「な、なによ、ちょっと片付けてただけで」 「…………」 じい、とこちらを見つめる妹の目は、 ぐるぐると渦でも巻いているかのように定まっていませんでした。 「ほ、ほら、水でも飲んで、落ち着いて」 「……嘘」 持ってきたペットボトルを差し出そうとするも、 妹はいつの間にかペインティングナイフを右手に携えて、 狂気さえ感じられる瞳を宿していました。 「ち、ちょっと、やめてよ」 「嘘、嘘、嘘……お姉ちゃんは、嘘つきだ」 「う、嘘なんてついてないわ。ねえ、ほら、落ち着きなさい」 救急車がくるまでの辛抱と、片手に持つ絵の具を隠しながら、 必死になだめようと声を掛けます。 「……ちがう、嘘。お姉ちゃん、嘘ついてる……」 「つ、ついてないってば。あ、ああ、そうだ。  ねえ、む、ムラサキ色が、好きなの?」 ラチがあかないので、話を逸らす方向へと持っていこうと チラリと置かれた絵に視線を向けました。 「……ムラサキ」 「ほ、ほら、この絵もいっぱいムラサキ色使ってるじゃない。  そんなに好きだったっけ?」 ピクリと眉を動かした妹に、重ねて言葉を続けます。 「た、確かに綺麗な色だけど……さ、さすがに使いすぎなんじゃないかなって」 「綺麗な色?」 一層低い声が、まるで別人のように低い声が空気を揺らしました。 「綺麗じゃない。あんな色、好きでも何でもない。気持ち悪い……」 「……え、じゃあ、どうして」 純粋な疑問から漏れた一言は、 ゆらりとペインティングナイフを構えた妹の姿に、 完全に失言だったことを悟りました。 「どうして……どうして? 理由なんて……理由なんて!」 「や、やめて!!」 「……ど、どうされたんですか!?」 振りかぶられたナイフは、こちらに振り下ろされる直前に、 ドタドタと室内に入ってきた救急隊員の乱入によって未遂に終わりました。 あれだけ錯乱状態だった妹は、 救急隊員の人たちの姿にあれよという間におとなしくなり、 私も共に救急車に乗って病院に搬送されました。 そして、その後――。 妹の脳内には、なんと脳腫瘍が発見されたのです。 まだ早期の発見だったこともあり、手術で摘出され、 無事に妹は生還しました。 落ち着いた妹は、まるであの日のことが嘘のように、 今まで通りの明るい、朗らかな妹の姿に戻っていました。 彼女の部屋には――さすがに私一人ではとても行く気になれず、 厳しい両親にあの絵描きの部屋を見せるのもまずいと、 仲の良い友人に頼み込み、 半日をかけて、荒れた室内を片付けました。 あのムラサキの絵は――正気に戻った妹に確認し、処分しました。 どうやら、妹にもうっすらと記憶はあるらしいのですが、 なぜああもムラサキ色に拘ったのかは、結局わからずじまいでした。 あ、ただ……ムラサキ、って、美術とか、 芸術家が好む色、らしいですね。 病気で人格がかわってしまっても、 妹の根底は、どこまでも美術家だった、ということでしょうか。 当の妹は、いまはもう結婚し、子どもを育て上げ、 のんびりと主婦とパートをしながら、 たまの余暇には絵を描くことを続けていますよ。 それでも、あの時のこと――。 あの、ムラサキ色の絵と、 ナイフを持った妹の姿は、いまでもたまに夢に見ます。 幽霊的なお話ではなかったですが、 脳腫瘍という病気で、人間の人格は簡単に変わってしまうこと、 そして、早期に発見できたから良かったものの、 もし放っておいたら、妹はどうなっていたか――。 私にとってはそれもまた、 途方もない恐怖だったのです。
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