夜行

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夜行

 静まりかえった夜行列車。夜の三時をとうに過ぎ、車内にはごくごく細い明かりしかついてはいない。  ちいは目を細めて、冷たい座席と眠りこける乗客たちを見つめていた。幼いちいにとっては目を開けていることさえつらい時間だが、この列車の中で眠りにつこうという気にはとてもなれなかった。  隣では、ちいの母が座ったまま寝息を立てている。ときおり、ちらりと母のほうを見やるが、母が目を覚ます気配はない。  誰もが夢の中で眠りこけているというのに、ちいだけが、ひとり、この夜行列車の座席に取り残されている。乗った直後は物珍しかった外の景色にも、もう飽きてしまった。窓の向こうに目を凝らしてみても、視界に入るのは真っ白な地面と真っ暗な空だけだ。この列車はあと何時間、こんな景色の中を走り続けるのだろう。  そんなことを思ったとき、ふいに誰かが歩いてくる音が聞こえた。ちいは顔を上げた。やけに重厚な足音と、カチャカチャと鳴る金属音が聞こえる。ひと息もしないうちに、ある人物の姿が目に入った。車内を行き来する車掌のようだった。  車掌はかっちりとした制服に身を包み、硬い革靴の音を響かせてこちらに歩いてくる。急に怖いと感じたちいは、とっさに目を伏せて寝たふりをした。自分だけが起きていることを、この車掌にとがめられるような気がしたのだ。  車掌はちいのことなど気にする様子もなく、ゆっくりと座席の横を通り過ぎていく。ちいは、思わず全身をこわばらせていた。息をひそめたまま、ゆっくりと薄目を開ける。車掌の重たそうな制服と、いかめしい造りの鞄が目に入った。その、一瞬のことだった。  鞄の口金が、きらりと光を放った。車内のわずかな明かりに反射したのだ。ちいはその瞬間を見逃さなかった。息を殺し、まばたきも忘れてその光を見た。それはまるで、宝石のような輝きであった。  一瞬。ほんの一瞬の出来事だった。  次の瞬間には、車掌はもうちいの後方へ移っていた。そのまま何事もなかったかのように、後ろの車両へと歩いていく。  やがて車掌の足音が聞こえなくなると、ちいは緊張から解き放たれ、細く小さな息をついた。いつの間にか列車の中は、少し前と同じ、冷たく静まりかえった風景に戻っている。  ちいは思わず自分の手のひらを見た。  あの宝石のような光は、夢ではないはずだ。ちいの手のひらには乗っていないが、たしかにこの目で見た。  ちいは背もたれに体を預け、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏に、あの口金の輝きが焼き付いている。  だったら、外のつまらない風景を見ているよりも、この輝きを見つめていたほうが、よほどいい。  そう思ったちいはしっかりと目をつむると、まぶたの裏の輝きに目を凝らした。  夜行列車は、雪の中で、静かに車輪の音を響かせている。  夜明けとともに目的地にたどりつくまで、あと、数時間だった。
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