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飛行機雲の奇跡
昔、誰かが言っていた。
『陸橋の上で大切な人と手をつないで飛行機雲を見ると、その人といつまでも一緒にいられる』と。
幼い私はその話を本気で信じて、毎日橋の上で立ち止まった。隣で手をつないでくれる人はいなかったけれど、『誰か』と手をつないだつもりで手を伸ばし、何度も空を見上げた。
飛行機雲はなかなか現れなかった。一瞬現れたと思っても、次の瞬間には消え去ってしまうことも多かった。
そうして飛行機雲すら見られないまま、一年が過ぎ、二年が過ぎ、それでも私は、陸橋の上で立ち止まることをやめなかった。私をからかう誰かの声を遠くに聞きながら、いつも『誰か』と手をつなぎ、空を見上げた。
それからさらに一年、二年と過ぎていき、いつの間にか、十年以上経っただろうか。
一緒に手をつないでくれる『誰か』も見つからないまま、私は毎日橋の上にいた。
橋の下は高速道路だ。フェンスの隙間から見下ろせば、車がびゅんびゅんと飛ぶように去っていくのが見える。ここはいつも風が強くて、近所の人たちはいつも別の道へ迂回する。好き好んでこの道を通るのは、今や私だけかもしれない。
それでも私は、今日も橋の上で飛行機雲を探す。
見ることができないということくらい、わかっているけれども。
いつものように陸橋へと足を踏み入れた私は、すぐに立ち止まってしまった。先客がいたのだ。
小学生くらいの男の子だった。
真新しいリュックサックを抱えて、空を見上げている。
飛行機雲を探しているのかも――――そう思った私の目の前で、その男の子は急に大声を出した。
「大好きだよーーーーー!!」
突然の大声に、私は足がすくんでしまった。いつものように橋の中ほどまで進みたいのに、とてもそんなことをできる状況ではなかった。
と同時に、私はあることに気づいた。男の子は右腕にリュックサックを抱え、開いた左腕を横に伸ばしている。まるで、見えない誰かと手をつないでいるかのように。
「大好きだよ! 飛行機雲は見えないけど、大好きだよ! 本当だよーーーーーー!!」
この子もきっと、私と同じ噂を聞いたことがあるのだろう。『大好きだよ』と叫ぶ話は聞いたことがなかったけれど、もしかしたら私が忘れてしまっただけなのかもしれない。
私はなぜだか安心して、その子に向かって歩き出した。さっき足がすくんでしまったのが嘘のようだ。足取りが軽い。今までこの橋に向かって歩いてきた、どの日よりも。
「あなたにも、ずっと一緒にいたい大切な人がいるの?」
私が尋ねると、男の子はぱっと振り返って、私の方を見上げた。
「ううん。いないんだ」
「なら、どうして……」
自分のことを棚に上げて訊いてしまう自分が後ろめたかったけれど、訊かずにはいられなかった。
この問いに対する答えを、私はとっくに知っていたような気がしたから。
「今、ぼくと仲良くしてくれる子はいないけど、いつか仲良くしてくれる子に出会って、その子と、いつまでも一緒にいたいから」
そう答えると、男の子は少し照れたように笑った。いつか必ず出会えると、そう信じているような顔だった。
「そっか、そうだね。いつか必ず、そんな人に会えるよ」
私は口ではそう言いながら、心の中では、この子と手をつなぎたくてしょうがなかった。
だって本当は、ずっと待っていたのだ。この場所で、この瞬間を。
だけど素直に手を伸ばすのが恥ずかしくて、私は右手を出すかどうか迷ったまま、ちらちらと男の子の左手ばかりを見ていた。
すると、その視線の意味に男の子は気づいてしまったのだろう、私に向かって自分の左手を伸ばしてきた。紅潮した頬に、満面の笑みを浮かべて。
「おねえさん!」
差し出されたその手を、私はしっかりと握った。
男の子は、すぐに握り返してくれる。
冷たい手だ。吹きつける冷たい風のせいで、すっかり冷えてしまったのだろう。その手を暖めるようなつもりで、私はさらにぎゅうっと手を握った。
「あっ、飛行機雲!」
男の子が甲高い声で叫んだ。見上げれば、小さな飛行機が空に白線を描いている。この飛行機雲も、一瞬後には、もう消えてなくなってしまうだろうけど……。
「おねえさん! 早く、早く!! 雲が消えちゃうよ!」
男の子が私の手を引いて急かしてくる。なにをするつもりなのか、私には一瞬、わからなかった。戸惑う私をよそに、男の子は空に向かって叫んだ。
「大好きだよーーーー!!」
その声に、私ははっとした。そうだ、大切な人といつまでも一緒にいるためのおまじない。やっと今、本当にそれができる。大切な『誰か』――ううん、大切な人と手をつないで。
「大好きだよーーーー!!」
私は男の子と声をそろえて叫んだ。
「ずっとずっと、大好きだよーーーー!!」
そうしようと決めていたわけでもないのに、私と男の子の声はずっとそろったまま、何度も何度も「大好きだよ」と叫んだ。
やがて息を切らした私たちは叫ぶのをやめて、橋の上にしゃがみこんだ。すっかり息が切れて苦しいけれど、なんだかとても気持ちが良かった。
と、つないだままの右手をくいくいっと引かれて、私は男の子のほうを見た。どうしたの、と視線だけで問いかけると、男の子は息を切らしたままはにかんで、私の腕に飛び込んできた。
「おねえさん!」
少し驚きながらも、私は腕を広げて男の子を受け止めた。
「おねえさん! ずっと、ずっと一緒だよ!」
上気した頬で男の子はまくしたてる。うれしくてたまらないといった様子に、私も思わず微笑む。
「うん、ずっと一緒にいるよ」
「ほんとにね、ずっと一緒だからね!」
「うん! もちろん」
興奮が抑えきれないのか、男の子は私の体にぎゅっと抱きついた。そのしっかりとした腕の強さに驚きながら、私も男の子を抱き返した。
二人で抱きあっていると、風で冷え切った体もすぐに温まっていく。私はふっと空を見上げた。雲一つない、見事なまでの青い空だった。白い飛行機雲はもう見えない。やはり一瞬で消えてしまっていた。
でも、このぬくもりの確かさがあるから、私は少しもさびしいとは思わなかった。
昔、誰かから聞いた噂は本当だったのだ。
私はこの子と、いつまでも、いつまでも一緒に……。
途端に胸が熱くなって、私は思わず男の子のほうを見た。眠たそうにとろんとした目が、私の腕の中にある。
私はくすりと笑って、男の子を抱き直した。つないだ左手もそのままだ。
このままずっと、こうしていたい。
飛行機雲が教えてくれた奇跡を、しっかりと胸に刻んだまま――――。
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