不可逆的な心の引き金

1/1
前へ
/1ページ
次へ
『関東地方では今季最大の寒気が訪れ___』  テレビから流れる天気予報に目をやりつつ、シリアルを口に運ぶ。今日のは抹茶味。期間限定の文字に釣られて買ってしまったが、冒険はしない方が正解だったようだ。嫌いというわけではないが、次からはいつも食べている定番商品を買おうと考えた。  この町に引っ越してきてもうすぐ一年。初めてこの場所で過ごす冬は想像以上に寒く、乾燥している。地元の雪景色の方が好きだと思いつつ、あと三年はここで暮らすことを考えると慣れるしかないのだろう。幸いにもこっちは東京と同じで晴れの日が多く、買い物にも自転車で行くことができる。自分が今までの人生のほぼ全て、18年間を過ごした隣県がこんなにも気候も景色も違うなんて自然の神秘だ。……しまった、スプーンを動かす手が止まっていた。女子大生の朝の時間は貴重だ。考え事をして無駄にできるようなものではない。朝食のシリアルを食べて、占いを見て、洗い物をして、歯磨きをして、顔を洗って、適当な服に着替えて、髪を結ぶ。これが私の朝のルーティン。一つでも狂えば何をしていたか忘れたり、学校に行ってから忘れ物に気付くことになる。書いていて思うが、私は本当に要領が悪い。学校でも教科書を用意する順番や、ペンケースの置く場所、マーカーペンの仕舞う順番までも同じ。自分の中のルーティンを崩されると感情がコントロールできなくなるし、次に何をすればいいのかと焦ってしまうためにミスが続き、悪循環に陥る。  予定を立ててもすぐに手帳に書き込んで、数時間ごとに確認しなければ忘れてしまう。それくらいならまだいい。話している最中に内容を忘れることが一番大変だ。「今何の話してたっけ?」なんて言うのは日常茶飯事だ。  こんなことを続けていれば、自然と友達は少なくなる。将来人と関わる仕事に就きたいとか言っているけれど、実際の私は人と親しくなるのを拒み、仲良くなっても一枚壁を隔てている。心は完全には開かない。笑顔の仮面を纏って、出来る限りポジティブで元気な人を演じる。本音でぶつかることなんて絶対に無い。そう、絶対に。  なら、今私の目から零れているものは何?  言葉が、感情が、止まらない。ずっと隠してきた本音が堰を切って溢れる。    階段の下には蹲る友人。それを囲む他の友人や先生たち。それを階段の一番上から見下ろす”僕”。友人が怪我をして悲しいはずなのに、泣いているのに、張り付いた笑顔が剥がれない。僕の手を別の先生が引っ張るが、僕はその場から動けず、床にへたり込んだ。 「君のせいだ」  連れていかれた部屋で、長い沈黙の末に発した言葉がそれだった。先生は何か言っているが何も聞こえない。涙で滲む視界、掠れた声。自分の中の全てが空っぽになってしまっていて、どうしてあんなことになってしまったのかが思い出せない。何かを言わなくちゃと頭では理解していても、体がうまく動いてくれない。 「どうしてこんなことしたんだ」 「危うく死ぬところだったんだぞ」 ……さい 「真面目でこんなことするような子じゃないのに」 ……うるさい 「友達なんだよね?」 ぷちっ 「××さん、黙っていても先生たちは何も___」 「うるさいって言ってんだろ!!」  "私"の中の何かが、ようやく繋がった。あれだけ吐き出したはずなのに、面白いくらいに感情が溢れてくる。 「さっきからうるさいな。そうだよ、私がやったんだよ!先生方は何か勘違いしているみたいですけど、私とあの子は友達でも何でもありません。赤の他人です。あの子、一人にすると勝手に病んで他の子に迷惑かけるんで、私の大切な友人たちに迷惑をかけるわけにもいかないので、仕方なく、私が、一緒にいてあげたんですよ。あの子は私のアドバイスを全部無視して、結果傷付いて、私に泣きついてきたんです。挙句の果てには私のトラウマを引き戻しました。そんな奴を友達だって言えますか?流石の私も許せなかったんですよ。今日も勝手なこと言って、嫌な過去思い出して、気付いたら階段から突き落としてました。人を傷付けてはいけない、人を殺したら夢を叶えられなくなる、大切な人のためにもそれだけはやっちゃ駄目だって、わかっていました。わかっていたのに、私は、」  そこまで言って言葉に詰まった。コートのポケットからスマートフォンだけを取り出して、飛び出した部屋のドアを無造作に閉める。行く当てなどない。どこにも逃げられない。けれど今は、唯一信頼できるあの子の声が聞きたかった。真っ暗なコンピュータ室で、ドアの鍵を内側から閉めて、部屋の隅に座り込んだ。スマートフォンを操作して、あの子の名前をタップする。藁にも縋る思いで端末を耳に当てると、数コールの後に、柔らかくて温かい、大好きな声が聞こえた。 「どうしたの、××。」 「……」 「××?」 「……私、一線を越えちゃった。」 「なに、どういうこと?何があったの?」 「ごめんね。約束守れそうにないや。」 「××、ねぇ、××!!返事して!!」 「……友達をね、階段から突き落としたの。もう限界だった。私ここまで頑張ったよ、だから___」  がちゃり、と音を立てて開いたドアの向こうから光が差し込む。壁には数人の影が映る。ここまでだ。私が今まで積み上げてきたものも今日で終わり。パパ、ママ、裏切るような真似をしてごめんなさい。落としたスマートフォンから私の名前を呼ぶ声が聞こえる。最後までまともな子になれなかったな。やっぱり私は出来損ないで、周りの人のように『普通』にはなれなかったんだ。  外の寒さなど知らぬと言わんばかりの生暖かい風が、僕の頬を撫でた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加