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肩にめり込む鞄の持ち手、狭いところに押し込められ、一心に体重を支える爪先。私の体は痛みに満ちている。別に何も特別なことはない。誰もが何食わぬ顔で耐えている痛みだ。しかしこの、死神のマントにでもくるまれている様な息苦しさはなんなのだろう。
仕事だって悪くはない。残業が多いわけでも、理不尽な罵倒を受けるわけでもない。しかし、どうしても、この緩やかな絶望感は私を優しく包み込み、私の呼吸の邪魔をする。それは決して、誰かに空気を抜かれている訳でも、何かに口を覆われている訳でもないのだろう。ただただ、私は呼吸が苦手で、そのせいか、見える世界は色を失う。コンクリの打ちっぱなしのようにのっぺりと灰色の景色の中、今日も会社に向けて歩を進める。
東京の通勤時間帯の様子を「軍隊のよう」という人がいる。多くの人が、疲れに垂れる瞼を見開き、気持ちを奮い起こして覚悟とともに戦場に向かって一歩一歩を踏みしめているからだ。しかし、彼らがまとっている戦闘服も、私が身に付けた途端、喪服も同じになってしまう。伸びた背筋の行列の中、私一人が猫背でうつむき、前をハキハキと歩く戦士の踵に必死についていく。場違いな私は、彼らが息をするようにできる歩行ですら、集中しないとままならない。眼前をリズミカルに前後する革靴の動きを真似て、自分の足を交互に動かすだけで精一杯だ。
しかしなんだろうか。今日はいつもより歩みが重い気がする。少し向かい風でも吹いているのだろうか。なんだかそんな気がしてならない。この中で私だけがこの向かい風に気が付いている。いや。分かっている。私が負けそうになっているだけだ。皆きっと、この向かい風を物ともしない強い意志を持っているのだろう。
そんなことで頭をいっぱいにしてしまったから、やはり流れから振り落とされてしまってらしい。後ろからヒールを蹴飛ばされて初めて気が付く。反射的に振り向こうとすると、その主は既に私の斜め前に躍り出ていて、取り残された彼の鞄が、主人に着いて行こうと私の右腕を乱暴に押す。彼の背中に見えていた微かな苛立ちも瞬く間に消えてしまう。その判断は間違っていない。私なんかには心を割くだけ無駄なのだ。そのことに私の心がざわつかないのが何よりの証拠だろう。
立ち止まってしまった私は、列を外れたにもかかわらず、馬鹿の一つ覚えの様にうつむき、前の人の踵を探した。すると、なんだか驚いてしまった。あるはずのない踵がそこにあったのだ。白く短い靴下に安物のくたびれたスニーカー。ためらうように出しては引っ込められるその右足は、その場で唯一、私と同じペースで動いている物に違いなかった。
顔を上げると、そこにはひどく丸まった小さな背中があった。70、いや80くらいだろうか。おばあさんがエスカレーターの左側に乗り込もうとしているのだ。しかし、私でも難なくできるその作業が、彼女にとっては大仕事のようだった。意を決してそろっと右足を出しては、櫛のような出口から次々に吐き出される黄色い線に驚いてひっこめてしまう。
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