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 北階段を上がっていくと、屋上からのドアがふいに開いて、例の東條恭臣が姿を見せた。まだ稽古着を身につけたままの東條は、階段をのぼってくる達哉に気づくと、ふと肩をすくめて苦笑してみせた。 「ふられましたよ。……好きな人が、いるんですって」  穏やかな口調だった。  忍の答えなど、もしかしたら東條には最初からわかっていたのかもしれない。  そして、会議があるなどと言って忍を連れて行った達哉の気持ちにも……とうに、気づいているのかもしれない。  もしかしたら、達哉自身より早く。  東條はひらひらと手を振りながら、達哉とすれ違う。階段をいくつか降り、しばらくしたところで、東條が振り返って言った。 「……生徒会は、やります。……惚れた弱みなので」  冗談めかしたその口調に、達哉は笑った。悪い奴じゃないのだ。その一言で、それがわかった。  忍は、どうして急に、東條をふったのだろう。ふと、そんな疑問が頭をよぎった。  傷つけたくないと、あれほど言っていたのに。答えが見つかるまでは突き放せないと、言っていたはずなのに。  ……わからないことばかりだ。だが、忍が達哉の言葉を真に受けて、東條を受け入れたりはしなかったことが、達哉をとりあえず安堵させていた。  ゆっくりと階段を降りていく東條をしばらく見送ると、達哉は手をのばし、屋上へのドアに手をかけた。一瞬迷い、力をこめて鉄の扉を引く。  視線をめぐらせると、屋上の手摺りに寄りかかるようにして、忍が眼下の校庭を見下ろしていた。  達哉が近づいていくと、足音に気づいた忍がゆっくりと振り返る。その忍の表情を見て、達哉は苦笑した。 「おまえのほうが、よっぽど……ふられたみたいな顔、してるな」  そう言うと、忍は小さく笑った。  似たようなものだ。好きな相手から、ほかの男と寝てやれなんて言われたら……それはもう、ふられたのと同義だろう。 「本気で、……俺が、東條と寝ればいいと思った?」  そんなふうに聞かれて、達哉は黙り込む。黙ったまま、忍の隣に立ち、手摺りにもたれた。  忍は傷ついた瞳で、まっすぐに達哉を見つめてくる。  傷ついているけど、決して弱くはない眼差し。静かな輝きの中に、自分の姿が映りこんでいるのを見つけて、達哉は目を瞬かせた。目が、逸らせなかった。  ……自分は、どうかしているらしい。忍のことを、綺麗だと思うなんて。  答えを返さない達哉に苛立ったように、やがて忍の方が目を逸らした。俯いて、深々と、諦めたようなため息をつく。 「……おまえ、ずるいよ。ずっと俺のことなんて無関心で……視界にすら入れようとしてなかったくせに、いまさら干渉してきて……」  自分と達哉の間には、必要以上に近づくなという、不可視の境界が引かれていた。達哉が望んだその位置関係を、忍はずっと守ってきたつもりだ。  それなのにどうして今更、そのラインを踏み越えようとするのか。必死で押し隠してきた感情を気まぐれに乱されれば、忍だって穏やかではいられないのだ。 「なあ……もう、言ってもいいか? ……おまえがぶち壊したんだ。俺は、最後まで……うまくやるつもりだったのに」  そう言いながら、忍は強く瞳を閉じた。 「……本当に、もう、苦しいんだ。ずっと苦しかった」  好きだなんて、否定されるだけだとわかっていて、言えるはずがなかった。ここから先は入ってくるなと示されたラインの前で、何でもないことのような顔をして、立っているしかなかった。  苦しくて、それでも離れられなかった。何ひとつ許されなくても……ただ、近くに居たかったのだ。 「……オレのこと、好きか?」  そう聞きながら、達哉は忍の顔にゆっくりと片手を伸ばした。頬に近づいたその手を振り払って、忍は静かに笑った。 「気づかなかったなら、おまえは馬鹿だ」  そう答えた忍の両脇の手摺りをふいに掴んで、達哉は自分の腕の中に忍を閉じ込めてしまう。  近すぎる距離に戸惑うように、忍が顔を背けた。 「馬鹿。……おまえが、言ったんだろう。気のない相手は、ちゃんと……突き放せって……」 「……そうだったな」 「離してくれ」  忍の命令口調に、達哉は首を振る。  相手の吐息が、かかるほどに近い。  少しでも身動きすれば、触れ合ってしまう距離。ここは明らかに……境界線を、越えた場所だ。  まっすぐに見つめてくる達哉の視線を、忍は受け止めた。  これまで、一度として自分をきちんと見ることなどなかった瞳が、今は自分だけを映している。  そして、その瞳の中に揺らぐ甘さに、……忍はようやく気づいた。  なぜ達哉が、自分をこんなふうに見つめるのか。なぜ、自分を振り払わないのか。あまりにも簡単なその答えを、見つけてしまった。 「なんで……今更」  苦しげに眉根を寄せてそう呟き、忍は顔を伏せた。伏せればそこは、達哉の肩だ。軽くぶつかった忍の頭を抱き寄せるように片手で包み込んで、ごめん、と達哉は謝った。 「わかってる。……オレが、悪かった。ずっと、見ないようにしてきたんだ。おまえの気持ちも……自分の気持ちも」  向き合うのが怖かった。見つめれば、そらせなくなる。触れ合えば、引き寄せたくなる。最初から、それがわかっていたから。 「逃げてたんだ」  気づいてしまえば、簡単なことだった。……ひかれていたのだ。最初から。 「ごめん」  達哉はもう一度そう言った。  自分は今まで、本気で誰かに謝ったことなどなかった。たとえ頭を下げることがあっても、心の中では、きっと誰にも屈しないで生きてきた。  そうすることで、自分のプライドや、生活や、他の何かを……必死に守ろうとしていたのだ。だが、いまは何を無くしても、忍を失いたくなかった。 「謝って……それで、俺が手に入ると思うのか」  腕の中で忍にそう言われ、達哉は眉をひそめた。簡単に許されるはずもないと、わかってはいた。一年の間、ずっと目を背けていたのだ。 「おまえのことが、好きだよ」  伏せられた顔にそっと唇を近づけて、静かにそう言った。それが免罪符にならないことは知っていたが、もうそれ以外は、言葉が見つからなかった。 「ほかに……何を言えばいい? おまえが好きだって言葉以外……オレの胸の中に、あとは何もない」  そう言って、達哉は忍の肩を抱き寄せた。 もっと早くこうしていれば、こんなにも忍を苦しめることはなかった。  この一年間を、無駄にしたような気がする。優しい言葉すらかけられず、ただ同じ時間を過ごした。触れ合わず、向き合わず、ただ息を潜めるようにして自分の気持ちをやり過ごした。  あと少しで、生徒会の任期は終わる。卒業までも、半年しか残されていないのだ。今さら何なのだと、忍が憤るのも無理はなかった。 「任期が終わっても……卒業しても……ずっと、そばにいてほしい」  達哉はゆっくりとそう言った。……忍と、離れたくない。それが正直な気持ちだった。 「…………」  腕の中に閉じ込めた相手は、拒むことも頷くこともせず、ただ唇を噛んで俯いていた。  やがて忍の腕が、しがみつくように達哉の背に回され、唇が重なった。  ……深く、息苦しいほどにせつない口づけ。  それが最初のキスなのか、それとも最後のキスなのかは、わからなかった。               END
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