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 向き合うことが、怖かった。……怖いものなんて、何一つなかったはずなのに。    ◇  ◇ 「忍が、弓道部の一年にちょっかい出されてるって話、聞いてるか?」  唐突にそんなことを聞かれ、笹辺達哉は不機嫌な表情で、資料を睨んでいた視線を上げた。  七月上旬、放課後の生徒会室。まだホームルームが終わっていないのか、ほかの役員は揃っていない。  脈絡のない質問をした当の本人は、飄々とした表情でデスクの脇に立ち、達哉が叩くノートパソコンの画面をのぞき込んでいる。そのクラスメイトの横顔を見やり、達哉は軽くため息をついた。 「……五十嵐。見てわかると思うが、オレは忙しい。なぜなら、うちの優秀な生徒会書記が、ろくにパソコンも扱えないからだ」  その優秀な書記係は、達哉の厭味に動じることもなく、快活に笑った。 「オレは、好きで書記になったわけじゃない。ま、人選ミスだな」  去年の9月から一年近く書記をつとめてきた相手の台詞に、達哉は頭を抱えたくなった。生徒会の書記はこの五十嵐文昭とは別にもう一名いるのだが、一人ではどうしても書類作成の手が足りず、会長である達哉自身が資料や文書を作ることも多かった。  やれやれと首を振り、再び達哉は資料に目を戻す。次期生徒会役員の選定期限まで、一週間もないのだ。忙しいと言ったのは、決して誇張ではなかった。  県内屈指の名門男子校である私立清鳳学園の生徒会役員の選出は、決まって毎年7月に行われる。その選出方法は多少変わっており、いわゆる立候補制ではなく、全校生徒の投票、および教師陣の推薦で名の上がった候補者の中から、現生徒会役員が適任者を選定するという方法を採っていた。いわば自分たちの後継を選ぶことが、その生徒会の最後の仕事なのだ。  引き継ぎが終われば、容赦のない夏がくる。高校三年の夏なんて、受験一色だ。生徒会のメンバーはたいてい指定校推薦の枠が取れるが、達哉の志望校は1名しか枠がないうえに競争率が高いため、一般受験のための準備も欠かせない。 「……で、うちの副会長が何だって?」  パソコンを打つ片手間に達哉がそう聞くと、文昭は肩をすくめた。 「だから、忍が……一年の何とかって奴に言い寄られてるって」  それを聞き、達哉は思わず舌打ちしたい気分になる。 「……それがオレに、何の関係がある。だいたい、相手が一年なら、たぶらかしてるのは牧瀬の方だろう」  冷たく言って、再びパソコンのキーを叩き出す。とその時、軽いノックの音がして、生徒会室のドアが開いた。その向こうから、ひょいと顔を見せたのが噂の牧瀬忍だった。  すらりと背の高い、端正な面立ち。「美貌の」と形容されることが多い、現生徒会の副会長である。 「悪い。……遅くなった」  そう言ってパタリとドアを閉め、忍は二人がいるデスクの方へ歩み寄ってくる。彼にちらりと視線を投げて、達哉は言った。 「牧瀬。……教員側の意見、出たんだけど。生徒側の投票とは、けっこう食い違う」 「……予想通りだな。校長は、誰を推してる?」  そう聞きながら、忍は達哉の手元の資料をのぞきこむ。その途端、隣でその様子を見ていた文昭が、ふと眉根を寄せた。 「忍。……それ、どうした?」 「え?」  忍は虚を突かれたように首を傾げる。文昭と、それにつられた達哉の視線を辿って、ようやく思い出したように、自分の夏服のシャツの襟元に手を滑らせた。 「ああ、……これ」  呟いて、ちょっと困ったように笑う。 「……噛まれた」 「噛まれたって……あのな、……例の、一年か?」  血相を変えて詰め寄ってくる文昭をひらひらと手を振って追い払い、忍は笑った。首筋についた赤い痣を隠すように襟を引き上げて、再びデスクに視線を落とす。 「平気だよ。ちょっと油断しただけだ。……で、校長は何だって?」  達哉は手にした紙片を指先で弾いた。 「会長に、2Bの市原」 「市原、ね。生徒の投票では番外なのにな」 「校長は、成績表で選ぶからな」  生徒側の意見と、教員側の推薦が一致することは稀である。それらを突き合わせ、さらに当事者の意志も尊重しつつ後任の役員を選ぶ作業は、予想以上に煩雑だった。 「とにかく、月曜までにだいたいの案を出さないと、議会が……」  達哉がそう言いかけた途端、文昭がガシッと自分の鞄を掴んで立ち上がった。達哉は眉を跳ね上げる。 「どこへ行く」 「部活」  あっさりと答えた文昭に、達哉は脱力して頭を抱えた。 「……五十嵐。頼むから、自分の後任だけでもいいから、決めていってくれ」 「明日、試合なんだよ。それで引退だから、その後は生徒会に全力投球するって」  達哉は深々とため息をつく。文昭は剣道部の主将をつとめており、練習や後輩の指導で忙しいのはわかっているが……こちらもこちらで、手が足りない。さすがにこればっかりは、達哉一人で決めてしまうわけにもいかないのだ。 「なら、……日曜に、集まれるか。試合の翌日でお疲れだろうが、それがギリギリだ」 「集まるって、……笹辺の家でか? 何時?」 「とりあえず、十時集合。何時までかかるかは、おまえの働き次第だ。他の役員にも伝えておけ」  了解、と頷いて、文昭は生徒会室を出ていく。その二人のやりとりを横で見ていた忍は、必死で笑いをかみ殺していた。 「………」  達哉はその場の居心地の悪さをやり過ごそうと、手にしていた資料を意味もなくめくった。  文昭が席をはずして、忍と二人だけになる時間が、達哉は苦手だった。生徒会で一緒に仕事をするようになったこの一年、ずっとそうだ。  達哉と文昭はクラスが同じで、文昭と忍は出身中学が同じ。達哉と忍は、間に共通の友人である文昭を挟むことで、何とかバランスを保っていた。  忍のことを、信頼してないわけではない。頭のいい奴だとわかっている。何か聞けば、期待した通りの答えが返ってくる。忍の存在があったからこそ、この一年、達哉はどうにか生徒会長なんて面倒な役目を務めてこられたのだ。  それはわかっているが……ただとにかく苦手なのだ。反りが合わない。  達哉の順調な学生生活の中で、牧瀬忍は音の外れたピアノのキーだった。その音を鳴らしてしまえば、和音が乱れる。  だが達哉は、その鳴らない鍵盤だけをうまく避けて曲を弾きこなす器用さを持ち合わせていた。……うまくやっているつもりだったのだ。少なくとも、表面的には。
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