49人が本棚に入れています
本棚に追加
4.こえが聞こえるなら
狐乃音が神の力を使って作り出した亜空間にて。二人は話を続けていた。
「声が、聞こえたのです」
「声?」
「はい。死にたくない、という強い叫びが」
それはきっと、この男の体が意識とは関係無く発したものなのだろう。
「あの」
頬のこけた男は一目で、疲れ切っているのだとわかる。狐乃音は申し訳なさそうに、声をかける。
「……」
「もしよろしければ、何があったのか、教えていただけませんか?」
狐乃音は人懐こい笑顔を見せ、ゆったりとした口調でそう言った。
男は落ち込んだようにうつむきながら、ぽつりぽつりと語り始めた。どうやら狐乃音のお陰で、気持ちが落ち着いたのだろう。意図せず、ショック療法になっていたようだ。
「何が何だか、わからなくなってしまったんだ」
それが全て。一言で説明すると、そんな感じ。男は深いため息と共に、どうしてあんなことをしてしまったのか、理由を吐き出していた。
男は、この近くにある会社にて、二十年以上働いているそうだ。
昔から、会社の労働環境は劣悪だった。次から次へと仕事が押し寄せてきては、残業続きの休日出勤だらけ。仕事量の調整が、まるでできていないという典型的なダメ組織だった。
男は頑張ったが、疲労が慢性的に溜まり、集中力もガタ落ち。生産性なんて上がるわけもなかった。その上、トラブルばかり起きてしまい、片時たりとも気が抜けない。ミスをしたら最後、大声で叱責されるような、雰囲気の悪さ。
それでも、男はなんとか耐えた。守るべき者がいる。妻子がいるのだから、逃げる事はできない。ずっと頑張ってきた。自分がしっかりしなきゃいけないのだと、歯を食いしばった。
「働いて、稼げない男なんて、いらないだろ? 価値もない」
プライドも、勿論あった。けれどそれは、些細なことでしかない。
「俺が新卒の頃は、ひどい不景気で就職難でさ。俺も、何十社も落とされたよ。それも、一流企業でもなんでもない中小でもそうだったのさ」
ふうーと、長いため息が聞こえる。ネガティブなようでいて、ため息は体の緊張をほぐす効果があるようだ。
「一生懸命に頑張ってる若いのを馬鹿にするようなさ。態度の悪い面接官とか、いっぱいいたよ。今でこそパワハラだとか言われてるけど、社会に出たらそんなの当たり前なんだって。耐えろってさ。当時は誰も批判しなかった。ひどかったよ。今でも根に持っている。そんな奴らみんな、地獄に落ちやがれってね」
社会に対する恨み辛みは、確かにあった。けれど、それもこれも全て仕方がないことだと、男はいつしか思うようにした。経済の動向なんてものは、どうしても運に左右されるのだから。様々な、舌打ちをしたくなるような事に目をつぶり、前を向くことにした。
「ああ、俺は社会に必要とされていないんだって、思った。お前らなんかいらねーよって言われているみたいにね。企業が送ってくる不採用通知の最後にさ。貴方のこれからのご活躍をお祈り申し上げますってあるんだ。そんな祈り、いらねーよって何度も思ったよ」
狐乃音は真剣に、話を聞いていた。男が味わってきた苦痛をダイレクトに感じる。
「俺の年代は、まともに就職できなかった奴らが、ごろごろいたよ。それも、成績も良くて、一生懸命に努力している奴らもね。自己責任なんだってよ、それもこれも全てさ。ふざけるなって」
努力だけではどうにもならないこともあるのだろうと、狐乃音は思った。
「俺が今いるのはそんな状況で、どうにかして入った会社でね。あのときの苦労を覚えているから、どうしても辞めたくはなかったんだ」
だから、とにかく続けられるようにと最善を尽くしてきた。それなのにと、男は思った。
「このところ、人手不足が特にひどくてさ」
昔から、会社内で人員の定着率は悪く、人が入っては辞めての繰り返しだった。
男が折角一生懸命に教えても、幾度となく骨折り損になってしまった。
悪いことに、なぜ人が辞めてしまうのか? 続かないか? 会社の誰もが真剣に考えなくて、悪循環に陥っていた。どうせ人なんて、辞めたら新しく入れればいいんだと、そう思っているのだ。
「そのうちね、人も入ってこなくなった。年がら年中ハロワに求人を出してるような会社なんざ、みんな怪しむさ。ブラックなんじゃねーかってね。……何でもかんでも押し付けられるようになってさ。さすがに、持ちこたえられなくなった。どうにかしようとあがいたけど、これこの通り。完全に、パニック状態になってしまったよ」
「そうだったのですか」
狐乃音は時々相槌をうつ。辛い思いを少しでも、吐き出してもらいたいから。
「そんなブラック。さっさと辞めればいいって、他人は簡単に言うけどさ」
「そうはいきませんよね」
「うん……。いかないよね」
事情は人それぞれ。単純ではないものだ。
「就職氷河期世代とか、ロスジェネ。ああ、ロストジェネレーションの略なんだけど。俺も、そんな貧乏くじを引いた世代でさ。再就職をしようとしてもまた、どこもかしこも嫌がるってんだよ。ひねくれてるって、決めつけてやがるんだ。人が足らないとか抜かしておきながらさ。もう、何なんだろうね? 馬鹿なんじゃねって思うよ」
どうせ再就職もしんどいだろうことがわかっているから、現状を改善しようともがいた。
「最近はもう、朝になるたびに猛烈にうんざりしちゃって。ああ、仕事行きたくねえって思ってさ。寝る時間になる度に、いっそもう目覚めないでくれって思った。……それだけならまあ、今までだって何度となくあったけど。心臓がやたらばくばくして、気がついたら、嫌なことばかり考えてる状態になってた。頭をふって、そんなこと考えるなって思うようにしてみても、気づいたらすぐ嫌なことを考えてしまうんだ」
「それは明らかに、おかしいです」
「やっぱり、そうだよね。今ならわかる。君のおかげだよ」
正常ではないと、狐乃音は思った。
「ぼーっとしたまま。ああ、いっそここから飛び込んでしまえば楽になれるかなって、そう考えてた。完全に、抑えが効かなくなっていたな」
そして、思うだけでなく実行に移してしまった。あともう、コンマ数秒遅れていたら、男はあえなくあの世行きになっていたことだろう。ほんの数分前のことだ。
「そうだったのですか」
うつ、なのだろうきっと。狐乃音は思い出す。テレビのニュースとか、お兄さんとの会話の中で、幾度となく出てきた内容だ。精神疾患というものだ。
「情けないよな。まったく」
男はうつむいた。
違う、と狐乃音は思った。逃げること。それは決して悪いことでも、恥ずべきことでもない。むしろ人は弱いもので、容易に壊れうるものなのだ。
「うきゅ?」
狐乃音はふと、男が持っているリュックサックに写真入りのキーホルダーがつけられているのに気づいた。
「お子様、ですか?」
「え? ああ、これね。そうだよ。俺の娘。君と同じくらいの歳かな」
「そうなのですか~」
ピンク色のドレス姿でにっこりと笑っている、女の子の姿。低く沈んでいた男の声が急に、楽しげなものになった。
この人ともっといっぱいお話をしたいなと、狐乃音は思った。
最初のコメントを投稿しよう!