5.優しい世界

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5.優しい世界

「うちの子は、ドレスを着るのが好きでさ。誕生日とか七五三とかの度にしょっちゅう、写真撮りたい~ってねだってくるんだよ」 「そうなのですか。その気持ち、よくわかります」  色とりどり。ふわふわして、リボンをいくつもあしらった可愛らしいドレス。狐乃音自身、着てみたいなあと、心から羨ましく感じたのだった。 「今まで、無我夢中で育ててきたよ。仕事はいつもひどい状況だったけど、時間が許す限り保育園の送りとかして、我が侭を言われながらどうにか飯を食わせて、夜鳴きをしたら抱っこしてあやして、毎日のように風呂に入れて、おむつだって交換した。イクメンなんてもんじゃない。最善を尽くしてきたよ」 「すごいです~。いいパパさんなのですね」  子供のことを話す男は楽しそうで、嬉しそうで、どん底まで沈んでいた気持ちが嘘のように見えた。 「赤ん坊の頃は泣いてばかりでさ。ついこの間、ようやく立って歩けるようになったと思っていた。やっと、やかましく喋るようになってさ。これからの成長が楽しみだよ。……俺は。それなのに、俺は……」  つい数分前、自分が何をしようとしていたのかを思い出した。男は今、自己嫌悪に浸っていた。力なくひざまずき、涙を流していた。 「大馬鹿野郎だ。俺は」  無意識のうちに、どうして命を絶ってしまおうと思ってしまったのか?  大切な家族を残して、一生消えないであろう辛い思いを抱かせながら、この世を去ってしまおうとしたのか?  なぜ? ……わからない。どうしても、わからない。どんなに考えてみても、わからない。なぜだ。なぜ、あんなことをしてしまったのか。どうしてなんだ。なぜ、家族の事を忘れて、自死の道を選ぼうとしてしまったのか? 「とんでもない、最低の馬鹿親父だよ。俺は……」 「いいえ」  男の呟きを遮るように、狐乃音の一言。小さな娘のそれではなかった。否定を許さないような、少し鋭さを感じるような、凜とした女性の言葉だった。 「あなたは、何も悪くないですよ」  狐乃音は静かに、そう言った。そして更に続ける。 「ご自分を責めないでください。それは、いけないことです」  この人が、家族を愛しているのは紛れもない事実だと狐乃音は思う。 「素敵なご家族ですね。少しお話を聞いただけで、わかります。でも……」  狐乃音は寂しそうに目を伏せる。 「残念なことですが。家族は、万能ではないと思うのです。本当に、悲しいことですが」  誰もが言う。家族がいるから頑張ることができる、と。どんなに仕事で疲れていても、家族の顔を見れば癒される、と。  それは確かに本当の事なのだろう。  けれど、この男のように精神が極限の状態にまで追い込まれたとしたら、時として人は自死の道を選んでしまうことすらある。例えどんなに大切な家族が支えてくれていたとしても、癒せないこともあるのだ。 「お、俺は……」  狐乃音に助けられ、未遂に終わった。それでも、自己嫌悪が男を包み込む。底知れぬ罪悪感が込み上げてくる。  狐乃音は、男を覆っている呪いのような闇を払うかのように、静かに言葉を紡いだ。 「あなたは、何も悪くありません。そんな風に、衝動的に死を望んでしまうように、心が壊れてしまうくらい……ご家族のことすら思い出せなくなってしまうくらい、ひどい扱いをしてきた人達が悪いのです。あなたは一生懸命にお仕事をされて、ご家族を支えてこられたのでしょう? 立派です。誰にも否定される事ではありません。何も恥じらうことも、自己嫌悪に陥ることもないのです」 「……」  狐乃音はにこりと笑って、男を励ました。 「あなたのせいではないのです。わかってください」  ボリュームたっぷり。もふもふの狐尻尾でくるくると、男を包み込むようにしながら、小さな体でぎゅ、と抱きしめた。柔らかな感触に、男は無意識のうちに大いなる母性を感じてしまった。自分の娘と同じくらい、小さな子に。 「ご自分を責めてはいけません。わかりましたか?」 「……。ああ。わかった」  その一言に、狐乃音はホッとした。 「さ、立ってください。元の世界に帰りましょう」  狐乃音は元気にそう言って、立ち上がった。  そうして狐乃音は、長い髪をポニーテールにして結んでいる紅白の和紐を解いた。和紐についていた鈴が、チリンチリンと鳴った。 「ちょっと時間を巻き戻して、何も起きなかったということにしちゃいますね。あなたは陸橋を歩いている時に体調を崩してしまって、それで、倒れてしまいました」 「無かったことに?」  それは想像もできない力だと、男は息を飲んだ。 「はい! 橋から飛び降りることも、電車にはねられることも、ありませんでした。そういうことに、しておいてください」 「そんなことが、できるのかい?」 「はい。きっと、できちゃうんです。私は」  狐乃音はにこにこと笑いながら、そう言った。 「何も起きなかったのですから、自分を責めることもないですよね?」 「まあ、そうなるのかな?」  だんだんと辺りが白く、柔らかな光に包まれていく。 「ですが、これだけは忘れないでください。今のままですと、恐らく同じ事を繰り返してしまいます」 「ああ、そうだろうね。わかっているよ。自分でも、これからどうすればいいのか。痛い程、わかったよ」 「ご家族を、大切にしてくださいね」 「うん。一番大切なものを、見失ってしまっていた」  未来のため、何かを変えようとしないといけないだろう。そういうことなのだろうと、男は理解していた。  もう一度、やり直しだ。この小さくて可愛らしい狐の神様は、自分に再起のチャンスをくれたのだ。男は、この機会を無駄にしないことを誓った。 「ありがとう、狐乃音ちゃん。俺を助けて、励ましてくれて」 「どういたしまして、です。……その。あの」 「うん?」 「今更ですが、その~。やたら偉そうなことばかり言っちゃって、ごめんなさい……。私はそんな、立派な神様じゃないのに……」  出過ぎたことをしたと、しょぼーんとする狐乃音。男は笑顔を見せてくれた。 「そんなことはないよ。俺のぶっ壊れちまった心を、治してくれた。カウンセリングで、立ち直らせてくれた。本当に、可愛くて素敵な女神様だよ、君は。娘が会ったらきっと、大喜びするだろうな。尻尾とお耳が可愛い~って」 「あは。そうだと、嬉しいです」  もし出会えたら、尻尾とお耳をもふもふされたことだろう。想像がつく。  一時停止していた時が、動き始めたようだ。  狐乃音の体を中心に、金色の光が包み込んでいく。そしてやがて、全てが白一色に染まっていった。
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