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6.戻るべきところ
ずっと長いこと、夢を見ていたようだ。男はそう思いながら、目を開けた。
「お父さん!」
見知った顔。最愛の二人が自分を見ている。涙を浮かべた妻と娘が。
「ああ、大丈夫大丈夫。心配かけたね」
男は思う。決して夢ではない。あれはきっと、本当にあったことなのだ。狐につままれるとは、まさにこのことだ。
嗚咽と共に、二人の涙がぽたぽたと落ちてくる。男は困ったなぁと思いながら、家族を安心させるために笑顔を見せる。
「神様が、助けてくれたよ。まだ、死んじゃダメだよってね」
それもまた、本当のこと。
男は過労のあまり陸橋の上で倒れてしまった。そうして苦しそうにうずくまっていたところを通行人に発見され、病院に緊急搬送された。ただ、それだけだった。他に、何も起こらなかった。
(配慮が上手だね。可愛い狐の神様は)
とりあえず。どうせ望み薄ではあるけれど、体調が落ち着いたら会社に労働環境の正常化を求めてみよう。もしそれが聞き入れられないようなら、転職もやむなしか……。
(多分そうなるだろうなあ。やれやれ)
職場は、人が一人ぶっ倒れたところで変わるような、生易しい体質ではないと痛いほどわかっている。けれど、仕方がない。これ以上体を壊すよりはマシだ。見切りをつけなければ自分が死ぬ。
(助けてくれてありがとう。狐乃音ちゃん)
男は家族の為、覚悟を決めていた。
◇ ◇ ◇ ◇
男が救急車で運ばれていったのを確認するまで、近くでこっそりと見守っていた狐乃音。ようやくのことで全てを終わらせて、家に戻ってきた。
疲れ果て、完全にへろへろ状態なので、和室にて休憩をとろうとしていた。
カルーアミルクの瓶は出しっぱなしで、お風呂にも入っていないし、夕ご飯も食べていないけれど、もう限界なのだった。
「うきゅ……。ものすごく、疲れちゃいました……」
瞬間移動するとともに、空間を部分的に切り取って、自分達ごと亜空間へ転移させるという離れ業。その上、時間も少しばかり巻き戻してみたりと、八面六臂の大活躍。狐乃音も、まさか自分にそんなことができるのだろうかと思ったけれど、勢いでできてしまった。
その代償は、凄まじい疲労。
小さな体はやたら重たく感じ、周りがぐるぐるとしているように見える。
「お布団、敷かなくちゃ……」
力なく、へちょりと垂れてしまったボリューミーな尻尾。モップのようにずりずりと引きずりながら、押し入れを開けた。
そうしてお布団を引っ張り出して畳の上に敷こうとしたのだが、狐乃音は力尽きてしまった。
「きゅ……。う、埋まり、ます……ぅぅぅ」
その結果、どさどさと狐乃音の上にお布団だの枕だのの雪崩が発生して、完全に埋まってしまった。
「うきゅ~~~! ち、ちから、はいらないです……」
もはや、這い出すこともままならない。
「くきゅ~」
こうして狐乃音は、そのまま眠ってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇
「あ、あれ?」
「目が覚めた?」
辺りが夕焼け色に染まる頃、狐乃音は目覚めた。今はいったいいつなのだろうと思っていると、声がした……。
「狐乃音ちゃんは丸二日、寝ていたんだよ」
「うきゅ……。ごめんなさい……」
お兄さんに多大な迷惑と、心配をかけてしまった。狐乃音はうなだれる。けれど、お兄さんは優しかった。
「狐乃音ちゃんは、何も悪いことなんてしてないよ?」
確か、押し入れから布団を引っ張り出そうとしたところで力尽きてしまったはず。お兄さんが整えてくれたのだろう。布団は和室にきちんと敷かれていて、狐乃音はその中で眠り続けていた。
「また、誰かを助けていたんでしょう?」
「……はい」
「何があったのか、教えてくれないかな? 狐乃音ちゃん」
お兄さんに隠し事はできないし、むしろ聞いてもらいたい。狐乃音は一つ一つ、これまでの出来事を話始めたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「……と、いうことがあったんです」
「そうだったんだ。お疲れ様」
二人はソファーに座ってお話をしていた。
話を聞き終えてから、お兄さんは狐乃音を労った。それはもう、ものすごく疲れたのだろうとわかる。頭を撫で撫でしてもらって、狐乃音は嬉しそうに微笑んだ。
狐乃音にとってお兄さんは、一番の理解者なのだ。
「最初に、僕は狐乃音ちゃんに謝らないといけない」
「どうしてですか?」
「冷蔵庫に入っていた、コーヒー牛乳みたいなあれはね。実はお酒だったんだよ」
「そ、そうだったのですか!?」
「うん。カルーアミルクっていう、甘いお酒でね。仕事関係の人がくれたんだ。僕はあまりお酒を飲まないのだけど、断るのも悪くて、冷蔵庫に入れておいたんだ。紛らわしくてごめんね」
「そうだったのですか。……でも、そのおかげで、声が聞こえたんだと思うのです」
「そうだね」
たまたま。偶然が、人の命を救った。
「家族は万能じゃない、か。その通りだよ、狐乃音ちゃん」
「はい。……どうして、ああいうことになっちゃうんでしょう? ニュースとか見ていると、しょっちゅう目にするのです。残された人は辛いって」
「世の中が。……人が人を大切にしないから、かな」
「そうなのですか?」
「僕も昔は、会社勤めをしていたからわかるよ。嫌なこと、いっぱいあった」
お兄さんはコップにオレンジジュースを注いで、狐乃音の前に置いた。オレンジジュースはリンゴジュースと違って、刺激的ですと狐乃音は思った。
「この国はさ。鉱物資源が特に多いわけでなく。国土は全体的に山がちで、大規模農業にも向いてない。そのうえしょっちゅう大規模な災害に見舞われる。そんなハンデばかりの国が、一時はアメリカに次いで世界二位の経済大国になったんだ。人の力で、ね」
「はい」
「結局さ。最後の決め手になるのは、いつも人なんだよ。AIの導入だとか、オートメーション化とかされてもさ。それなのに、人が人を大切にしない。ないがしろにしてばかり。人的資源って、ものすごく重要なのに……。昔からの悪い癖だよ。日本人のね」
「良くなって、ほしいのです」
「でも……。最近になってようやく、パワハラだのコンプライアンスだのが騒がれてきたから。そういう意味では、いい時代になってきたんじゃないかな。少しずつ、ね」
「気持ちよく、したいですよね。お仕事は。……荒っぽいのは、怖いです」
「うん。まったくその通り」
お兄さんは、オレンジジュースのおかわりを注いでくれた。
狐乃音はふと、あのお父さんは大丈夫でしたでしょうかと、心配をしながら、オレンジジュースをくぴくぴと飲み干していった。
なぜだか、甘酸っぱさが身に染みた。
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