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7.新たな旅立ち
狐乃音の保護者であるお兄さんは、野球が好きだった。
「お兄さん。野球というのは、どういうスポーツなのですか?」
お兄さんの仕事が、在宅での文筆業ということもあって、音楽代わりにテレビの有料放送をつけていることが多かった。
狐乃音はそれを観ているうちに段々と、野球に興味を持ったのだ。
「基本的にね。ピッチャーと呼ばれる人がボールを投げて、それをバッターと呼ばれるバットを持った人が打つ。という流れなんだよ」
「そうなのですか」
「野球は、はまると面白いスポーツだと思うんだけど。人によっては、退屈に感じてしまうかもしれないね。親と一緒に野球場に観に行った子供が、飽きちゃって、走り回って遊んでるとか。よく見る光景だね」
狐乃音はそう言われて、逆に興味を持ってしまった。
そして目をキラキラさせながら、お兄さんに教えを請うのだった。
「お兄さん。るーるを教えてもらえませんか? 知りたいです」
「いいよ。えっとね……」
狐乃音の好奇心に、お兄さんは熱心に応えてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇
「東京ピクルトスパローズ、ですか。……何だか、可愛いチーム名ですね~」
お兄さんがひいきにしているチームは、そんな名前だった。
「そうだね。ああ。ほら、狐乃音ちゃんが今持ってるそれ。まさにそれだよ」
「うきゅ? ……あ、ああっ! これのことだったのですか!」
狐乃音は今、お兄さんに手渡されたそれを飲んでいた。国民的な乳酸飲料であるピクルトをストローで。
「そう。ピクルトを作っている会社が、野球チームを持っているんだ」
「そういうことだったのですね!」
ピクルトとは、このおいしい飲み物を作っている会社の名前だったのか! 狐乃音は俄然、親近感がわいてきた。
狐乃音は、お兄さんにじっくりと野球のルールを教えてもらった。お兄さんの教え方はとても丁寧で、わかりやすかった。
(先生みたいです)
狐乃音はお世辞抜きに、そう思った。
ストライク、ボール、アウトとは何か。ストライクゾーンとは? ヒットと凡打の違い。ボークの概念から、犠牲フライ、バントといった犠打の意味。ピッチャーが投げる時と、バッターが打つときの細かい決まりごと。盗塁や、暴投、振り逃げの概念。打率や打点の意味。果ては、エンタイトルツーベースから、ボールがドーム球場の天井に当たったときの規定といった、レアケースまで。
とても細かいことばかりだけど、狐乃音はきちんとノートにひらがなでメモを取って、一つ一つ覚えていった。そして、写真入りの選手名鑑をもらって、熱心に研究をしていた。
その結果。
初回に一点入ったきり。そのまま最終回までランナーすら出ないような、いわゆる拮抗した投手戦があったとする。
狐乃音はそれを見て『点が入らなくて退屈な試合なのです~』とか、不満を漏らしたりすることは無かった。むしろ『緊張感があって面白い試合なのです!』と、メガホンを片手にエキサイトしているような、立派な子に育っていった。
「お兄さん。ふと疑問に思ったのですが。このチームは、強いのですか?」
「ううん。あんまり」
「あれれ」
むしろ弱いと聞いて、狐乃音はおかしそうに笑った。それでは、一生懸命応援してあげたくなりますね、と。お兄さんも、そうなんだよと頷いた。
「昔ね。野村監督という人がチームを率いてたときは、それはもう強かったんだよ」
その時の試合を見てみたかったと、狐乃音は思った。
「僕は昔、東京に住んでいたことがあってね。その名残で、引っ越した今もこのチームのファンを続けているんだ」
「傘を差したりすると楽しそうです~!」
「狐乃音ちゃん。テレビじゃなくて生で、観てみたい?」
「はい! 観てみたいです~!」
「そっか」
お兄さんは、そういうことならと、言った。
「今度、観に行く?」
「いいのですか?」
「勿論いいよ」
「うきゅ~! 楽しみです~!」
狐乃音は素直に喜んだのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
夜の野球場にて、狐乃音とお兄さんはくつろぎながら観戦中。
狐乃音はいつもの巫女装束を脱いで、以前買ってもらった子供服を着ていた。お耳と尻尾はしっかりと隠して、普通に子供をしていたのだった。
「野球は。言い方は悪いかもしれないけれど、何かをやりながら、ダラダラと観るのがいい感じなんだ。作業の合間に、今どうなっているかなーって感じに流し観してる」
「そうなのですか。それで、お仕事中にテレビをつけっぱなしにしているのですね」
「うん」
「うきゅっ! またまた残塁なのです~!」
ワンアウト満塁という絶好のチャンスで、わくわくしかけた狐乃音だったけれど、初球を叩いて内野ゴロであっさりダブルプレーという、ガッカリシーン。今日は打線が湿りっぱなしの模様。
「あはは。狐乃音ちゃんも、わかってきたね」
ケチャップをたっぷりつけたホットドッグに、ポップコーン。焼きそばとフライドポテトもおいしい。とても楽しいひとときが過ぎていく。
そうしてやがて、試合は終わった。
「帰ろっか」
「はい!」
試合は9対1の敗戦。頼みのエースが大乱調で、3回持たずに6失点。その後を任された中継ぎ陣も踏ん張れず、順調に失点を重ねてしまった。攻撃は攻撃で、ソロホームランの1点のみ。毎回ランナーは出すも、ことごとく凡打に倒れてダブルプレーばかりという、だいぶ消化不良な内容だった。
それでも狐乃音はしょんぼりすることもなく、初めての野球観戦を心の底から楽しんでいた。
狐乃音とお兄さんは、人々が去り、閑散としていく観客席を降りていく。
と、そんな時……。
「うきゅ?」
狐乃音は気付いた。向こうから、知っている人が歩いてくることを。
(あ……)
四十代半ばくらいの男の人。以前、狐乃音が助けたあの人だ。間違いない。
奥さんと、狐乃音と同じくらいの背丈をした女の子も一緒だ。みんな、楽しそうに笑っている。あの時の、苦痛に満ちた表情は微塵も感じられない。
彼が背負っているリュックには、ドレスを着た女の子の写真入りキーホルダーに加え、小さな狐のマスコットキャラクターと思われるものも付いていた。
……狐乃音は知る由もなかったけれど、あの後この男は、狐が大好きになったのだった。自分を助けてくれたのは、小さな狐の神様だったのだから。
やがて男は、狐乃音の存在に気付く事も無く、すれ違っていった。
(よかったです)
あの後、彼がどうなったかを知る術はなかった。けれど、きっと幸せなのだということが、一目でわかる。死んでしまいそうなくらい、辛い時を乗り越えられたのだろうと。それがわかっただけで、狐乃音は満足だった。
「狐乃音ちゃん?」
「何ですか?」
「何か、いいことでもあった?」
「はい。ちょっと。えへへ」
にこにこしている狐乃音を見て、お兄さんはそう聞いてきた。
何があったのか、後で詳しくお話しますねと、お兄さんに一言。
星空を見ながら、二人は手を繋いで帰っていく。
狐乃音は、嬉しい気持ちで胸がいっぱいになるのだった。
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