人喰い廊下

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 夕日が投げかける光が校庭を橙色に染める。最後の生徒が校門を出ていく様子を窓から見届けると犹守弥栄(いづもりやさか)は部屋の中に向き直った。用務員室には彼と白髪の用務員、そして弥栄と変わらない年頃の男がいる。男の名前は安達真純(あだちまさずみ)。赤い革の上着がひときわ目を引く変わった出で立ちではあるが、彼はこの櫻城州に本府を置く神国海軍の軍人であり弥栄の仕事仲間でもある。 「さて、それじゃあ早めに片付けて失礼するとしようか」 木で出来た簡素な椅子から腰を上げると真純はこの場に似つかわしくないほど呑気な笑顔で弥栄を仕事へと促した。二人が向かうのは櫻城で起こる不可解な事件や現象を調査し、それを解決する仕事だ。  何歩か譲っても弥栄にはそれが海軍の仕事とは思えないが、目に見える形で市民のために貢献することを今の神国海軍総帥は非常に重要視しているのだとかつて真純は語っていた。街の近くに本府や軍港、海軍学校を構える海軍にとって、地域の人々と融和することが仕事のやりやすさにかかわるのはもちろんだが、海軍が市民の人気を得ようとすることには別の事情もあるらしい。 真純から聞いた話を平たく言えば、海軍はこの国の中枢にいる人々に好かれていない。総帥こそ櫻城の公子を戴いているものの、支配者階級の中でも地位の低い者や平民ばかりが集まった新設の組織が上流階級の人間から鼻つまみ者にされるというのはいかにもありそうなことだと思える。その海軍が微妙な均衡状態を保っている西海諸国を訪ね回っては結果として国内へ西海の文化だけでなく厄介事も持ち込むので、特に保守的な為政者たちからはすこぶる評判が悪い。海軍がその存在意義を世に認められることは国の中枢でくすぶり続ける、海軍の権限と活動を抑制すべきという論調を跳ねのけるために役立つという事情もあるのだ。そんな彼らに寄せられる市民からの依頼は海難救助から市民向けの講習、力仕事まで多岐にわたるが、真純と弥栄が担当する案件はもっぱら原因のわからない奇妙な事件ばかりだった。  州立大学の一学生としてここ有明の都に暮らしている弥栄は海軍の難しい立場を理解しているわけでもなく、かといって怪異に悩む市民を助けることに使命感を覚えているわけでもない。ただ、一学生として大学に通うには学費が必要であり、はるか北の故郷を離れて下宿をするにも金がいる。そんな単純で切実な理由から彼はいわゆる内職(アルバイト)として非常勤の軍人をしている。決して気が向く仕事ではないが、払いの良さに惹かれたことは素直に認めなければならなかった。 「三階の廊下のつきあたりでしたっけ。その、生徒が消えたっていうのは」 「はあ、そのようで……」 校舎の方を見上げたまま弥栄が訊ねると、用務員は彼以上に戸惑った様子で返事をする。事の顛末を聞けばその気持ちは弥栄にも理解できた。 この学校には人が消えると噂される廊下がある。口の字型の校舎北西の角から短く突き出るようなその廊下は一階こそ部屋に繋がっているものの、二階と三階は教室もなければ窓もないただの行き止まりになっている。元々この建物自体が一から作られたものではなく、別の場所にあった建物の一部を移築して校舎として利用しているそうなのだが、構造上の問題で移築の際にどうしても一緒に持ってくるしかなかったのだという。話を聞きながら案内された廊下には説明以上のことはなく、行き場のない備品がいくつか置かれたその場所に生徒たちは積極的に立ち寄らないという話も噂とは関係なく単に用がないからではないかと思われた。 「それにしても人喰い廊下とは……どこの学校にもその手の怪談があるんだな。僕の通った初等学校にもあったな。動く絵画とか延々と続いて終わらない階段とか」 「海軍学校にも人喰い鏡があったそうだよ。本当に人を食べるから撤去されたらしい」 「僕はもっとかわいげのある話をしていたつもりなんだけど」 不穏なことを世間話のように言ってのける真純へ困惑気味に向けた視線を戻すと夕日も入らない廊下は何となく不気味に見えた。用務員によれば人喰い廊下の噂は彼が勤め始めた頃から生徒たちの間に伝えられていたもので、今まで人が消えたことがあったわけではないという。しかし数日前、休憩時間中に廊下で遊んでいた生徒の一人が忽然と姿を消したことで事情は大きく変わった。幸い、生徒は数時間後に見つかったが、その現れ方も消えた時と同じくらい唐突だった。生徒を探す人々がひっきりなしに行き来していた校舎の入り口にぼんやりと立っていたところを教師が見つけたのだ。どこに行っていたのかと問いただしてもその答えは要領を得ず、今まで三階の廊下にいたはずだと首を傾げるばかりだったという。 「犹守君、何か感じるかい?」 真純に問われた弥栄は鼻をこすると眉をひそめる。 「何だか鼻がむずむずするけど、はっきりとはわからないな」  弥栄がこの奇妙な仕事への協力を求められたのはひとえにこの特異な体質のためだった。彼は怪異の存在を体の変調により感じ取ることができる。先天的なものではなく彼がここ櫻城の都、有明で巻き込まれたある事件のいわば後遺症として得たもので、怪異に対して体が過敏に拒否反応を示しているのだと弥栄は理解していた。昔から体を持たないものに寄り付かれやすい彼にはそういうものが近付くたびにくしゃみや目のかゆみ、耳鳴りなどが起こる。もう少し他の反応はなかったのかという不平はあるが、激しい腹痛などよりはましと考えるほかない。 「自分で確かめてない以上は何とも言えないけど、人が消えるとか瞬時に別の場所に移動するなんて論理的には考えにくい」 「論理的にはどんなことが考えられるだろう?」 真純は純粋に弥栄の見解を心待ちにしているようだった。 「例えば、見えないようになっていたとか。光が当たらない物は人の目には見えないから」 へえ、と言いながら傾げられた相棒の顔に手をかざすと弥栄は続ける。 「こうすると手の陰になっている部分は見えないだろう? 僕の顔に反射して君の目に入るはずの光が手に遮られているからだ」 「改めて説明されると納得だね。僕も見えなくなったと考えるのが現実的だと思う。地祇の術は物を別の場所に転移させることが可能だけど、これがとんでもなく難しいんだ」 そんなまったく別の自然法則に照らして納得されても、というつぶやきを聞いているのかいないのか、今度は真純が語り始めた。 「見た目が近い現象にはいわゆる神隠しがあるけど、あれは人や物が転移しているのではなくてこの世と異界が重なる部分に入り込んでしまって見えなくなるものでね。異界には現世のような意味での場所も時もないから、本人はその場を動いていないつもりでも重ね目を抜けたときに現世とずれが生じるというだけなんだ」 「安達君はここで神隠しがあったんだと思うか?」 訊ねると意外にも彼は首を横に振った。 「犾守君が異変を感じているなら別の要因だと思うよ。異界がたゆたいながら時々現世と重なるのは怪異じゃなくて自然の理だから」  ――自然の理。  事も無げに放たれた言葉に弥栄は少し苦い顔をする。真純は神国に影響力を持った神祇と総称される神族のうち、地祇族の加護を受けているのだという。彼のような人間は地祇の術という異能を使って瞬時に物を作ったり壊したり、弥栄の知っている物理法則を悠々と超えていく。弥栄にとっては怪異も加護も異界の在りようも物理法則に従わないという点で大した差はないが、神学を修めた真純に言わせればそれぞれが少しずつ違うらしい。真純の語る理に耳を傾ける価値がないとは考えていなかったが、この場でそれを追究するわけにもいかないので弥栄は改めて人喰い廊下を見回した。 「見た限り何もないけど、どうする?」 「うーん、そうだね……」 真純は相変わらず誠実そうだが感情の読めない表情で首を傾げた。これが生来の気質らしく、弥栄はこれまで彼が怒って声を荒げたり大笑いして騒いだりするのを見たことがない。 「鬼ごっこでもしようか」 思わず見つめ返した真純の顔つきはこのときも真面目そのものだった。
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