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 大騒ぎが終わり、片付けを済ませて桂たちが部屋に戻ったのは、十一時半過ぎだった。桂は相当疲れたらしく、部屋に戻るなりベッドに沈んでしまう。 「……おまえなあ、ホント、オレじゃなかったらやばいって」  布団をかけてやりつつ窘める瀧川の声も、熟睡している桂の耳には、もう届いていないのだろう。  桂を無理やり自分と同室にしたのは、もちろん『報復』計画のためもあったが、実は、他の人間と同室にさせるのが不安だったのもある。  たとえ桂に対して特別な感情がなくても、この状態の桂を前にして一晩過ごすのは、かなりきついはずだ。それがわかっているからクラスの連中も、あからさまな部屋割りに、異を唱えなかったのだろう。  無防備な寝顔にやれやれと苦笑して、瀧川は立ち上がった。  クラスメイトからの誕生祝いを、日付が変わる前に済ませたのには、もちろん理由がある。  テーブルに置いてあった携帯とカードキーを取り、さらに自分の鞄の中から小さな紙袋を取り出すと、桂を起こさないようにそっと部屋を出た。   ◆  ◆  部屋のドアが叩かれた時、消灯時間はとっくに過ぎていたにもかかわらず、修史たちの部屋では一人がこっそりと持ち込んだビールを飲みつつ、賑やかに話し込んでいた。  ノックが聞こえた途端、打ち合わせた訳でもないのに見事な役割分担で一人がビールを隠し、一人がつまみの皿をベッドの下に蹴りこんで、修史がドアを開ける。  見回り、かと思ったが違った。そこに立っていた図体のでかい訪問者を一瞥して、修史は眉根を寄せる。その人物がそこに立っている理由を、さっぱり思いつけなかったからだ。 「瀧川だ、瀧川。2D、陸上部、瀧川将人」  苛々とした口調でそう名乗ると、瀧川は修史を廊下に引っ張り出した。 「……名前ぐらい、知ってる。桂のクラスだろ? 何か用か?」  聞いた修史に答えるかわりに、瀧川は持っていたカードキーを修史の手に押し付ける。 「何?」 「部屋を替われ」 「は?」  目を白黒させている修史に、瀧川はさらに紙袋を手渡した。 「あと、これを渡してくれ。605だ。……じゃあな」  言うなり、瀧川は修史のいた部屋に入っていく。ちょっと待て、と修史はドアを叩いたが、中から返事はなく、ガチャリとロックのかかる音が響いただけだった。  渡された紙袋を修史は持ち上げる。薄い水色のパッケージの中には、何か重みのあるものが入っているようだが、きちんとシールが貼られており、中身はわからない。 「渡せって……誰、に?」  困惑して呟いた途端、すうっと頭が冷静になった。  突然浴衣一枚で廊下に取り残された修史にも、ようやく状況がわかってくる。……605号室が、いったい誰の部屋なのか。  ふう、と軽く息をついて、修史は廊下を歩きだした。エレベーターで、6階まで上がる。  605と書かれたドアの前で、一瞬迷ってから、キーを差し込んだ。小さな明かりだけが点いた部屋に、かすかな寝息がきこえている。  やがて、暗さに目が慣れてくる。ゆっくりと視線を巡らせると、奥のベッドで眠っているのが、予想どおりの相手だとわかった。 「桂……」  名前を呼んでも、すぐには起きない。仕方なく、修史はキーと紙包みをベッドサイドに置き、空いているほうのベッドに腰掛けた。  起きている時よりあどけないような、頼りないような横顔。  寝顔なんて、見慣れていた。それでもなぜか、見飽きたとは思わない。桂とは十年以上のつきあいなのに、桂の何かに飽きたと感じることがなかった。  ふとした表情も、仕草も、声も……何もかも新鮮で、色あせない。それが、ほかの誰でもない、桂だからなのだと気づいてはいた。 「……桂」  もう一度名前を呼ぶと、かすかに瞼が震えた。ゆっくりと寝返りを打つようにして、桂が瞳を開ける。 「んん、……あ、れ……修史?」  とろりとした目付きで、あふ、と桂が欠伸をした。 「……ごめ……いま、何時。……眠い」  修史はベッドサイドの時計を見る。0時00分。ちょうど、日付が変わった。 「12時。……おまえ、寝るの早いって」  からかうように言われて、桂はようやく今の状況を把握する。把握するというか、いったい何が起こっているのか、まったく把握できないことを認識した。  眠気が一気に覚める。桂は慌てて身を起こし、パチパチと目を瞬かせた。……部屋の中に、瀧川の姿はない。 「修、史……何でここにいるんだっけ?」 「瀧川が……部屋を替われってさ。ああそうだ、これ、おまえに渡すように言われたんだ」  そう言って修史は、瀧川から預かった紙袋を桂に渡す。それを受け取り、封を開けて中を覗き込んだ桂は、一瞬の間を置いて激しく咳き込んだ。 「何? どうした?」 「何、でもない。……ご、めん……水、くれる?」  心配そうに覗き込んだ修史の視線を避けて、桂は紙袋を枕の下に押し込む。何だ何だと思いつつ、修史は急いでグラスに水を注いでくる。  それを受け取り、半分ほど飲むと、桂はようやく呼吸を落ち着かせた。  一瞬、沈黙が降りる。この数日間、すれ違えば挨拶ぐらいはしていたが、面と向かって話すのは久しぶりだ。  桂が言葉に迷っていると、飲みかけのグラスを桂の手から受け取った修史が、ナイトテーブルにそれを置き、かすかに笑った。 「誕生日だな、桂」  おめでとうと低い声で言われて、桂は目を見開く。 一時間前に、クラスの皆から繰り返し言われた言葉。それなのに、まるでまったく別の言葉みたいに聴こえた。 「欲しいもの、あるか?」  まっすぐな目でそんなふうに聞かれて、桂は返事に困る。困った挙げ句、結局は首を横に振った。  本当は、たぶん、欲しいものがある。でも、修史が迷っている間は急がないと決めた。 「……今じゃなくて、いい」  それだけ言うと、修史はちょっと困ったように眉をひそめる。桂の言いたいことを、何となく理解したのだろう。 「…オレは、おまえが好きかどうかを迷ってる訳じゃない」  真摯な修史の言葉に、桂は頷いた。穏やかに、笑うことができた。 「……わかってる」  たぶん、この一、二年で出会って、それで好きになったなら、こんなには迷わなかったのだろう。  小さいころからお互いを知っていて、お互いの家族を知っていて……桂が、どんなに家族に大事にされているかを知っているから、修史は迷うのだ。 「おまえの母さんは、おまえがいつか可愛い嫁さんもらって、可愛い孫の世話をする……そういう、当たり前の未来を夢見てるんだろうなとか……そういうこと、馬鹿みたいだけど考えちゃうんだよな。期待とか、将来とか……オレが、裏切らせていいのかって……」  黙ったまま、桂は頷く。修史の迷いはそのまま、桂の迷いでもあった。自分たちさえ良ければそれでいいと簡単に割り切るには、友だちとして穏やかに過ごした時間が、余りにも長すぎたのだ。  それでも、おそらく桂が本当に望めば、簡単に手に入ってしまう事は分かっていた。桂にとって、相手を誘うことはすごく簡単だ。だが、無理やり距離を縮めて、後悔させたくなかった。 「急がないから……。ちゃんと、おまえが答えを出すまで、待てるから……」  桂は、喘ぐようにそう言った。  たとえそれが、どんな答えでも……修史が変わらずにそばにいてくれるなら、それでいい。焦って一瞬だけ手に入れて、永遠に失ってしまうことの方が、ずっと怖かった。 「桂……」  修史はそっと片腕を延ばして、桂の頭を引き寄せた。  桂をいとおしいと思う気持ちは確かにここにあって、それは絶対に嘘でも錯覚でもない。  迷うのは、ただ大事だから。男と女みたいに、きちんとした保証はしてやれないから。 「……桂」  ささやくように名前を呼ぶと、桂は額を修史の肩に寄せた。かすかに伝わるその優しい心音に耳を傾けるように、ゆっくりと目を閉じる。  修史は桂の髪を梳くように、そっと指先をくぐらせた。こめかみに唇を寄せる。吐息を漏らす桂の唇に、親指を僅かに触れさせて……そして、聞いた。 「今……、答え出して、いい?」  桂は目を見張る。視線を上げると、修史の黒い瞳が、すぐ間近にあった。 「たぶん、いくら待たせても、答えは変わらないから」 「修史……」  必要なのは、時間じゃない。そう思いながら、修史はゆっくりと息を吐き出した。  一点差の負け試合でフリースローを狙う時でも、きっとこんなには緊張しない。他の誰の前でも、こんな気持ちにはならない。 「何も、約束はできない。幸せになんて、できるかわからない。後悔させるかもしれないし、いつか、駄目になるかもしれない。怖くないなんて言ったら……嘘になるけど」  そこまで言って、修史は桂の首筋に口づける。ゆっくりと、背中を抱き込むようにして、桂の体を横たえた。  見下ろしてくる修史の真っすぐな瞳が、それでもまだ不安げに揺れている。知り過ぎているからだ。どんなふうに桂が傷つけられてきたかを……修史は、知っているから。 「修史……」  指を延ばし、修史の頬にそっと触れて、桂が微笑む。 「修史なら……いいよ」  どんな結果になっても、後悔しない。何も怖くないし、幸せになんてなれなくても構わない。  ゆっくりと、修史の唇が降りてくる。桂はそのキスと修史の体を受け止めながら、そっと目を閉じた。
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