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男は煙草に火をつけた。煙は窓をスルリとすり抜け外へ飛び出していった。男は煙が空中を彷徨い次第に消えていく様子を無心に眺めていた。しばらくして「ママー、なんか臭い」という近所の子供の声がしたかと思うと、窓を力強くバタンと閉める鈍い音が響いた。
男はもう一度煙草を吹かしたが、急に味気なく感じ、吸殻でいっぱいになった灰皿で無理やり火をもみ消した。
「散歩でも行くか。天気もいいし。煙草もなくなったし」
男はそう言ってゆっくり立ち上がり、大きく両腕を上げて伸びをした。しなびた灰色のパーカーに、サイズの合っていないダボついた黒いスウェットパンツ。髪はボサボサで、無精髭がだらしなく顔の下半分を覆っていた。自分がどんな状態か考えることもなかったし、そもそもしばらく鏡の前に立ったことすらなかったので、そんなことには気がつきようもなかった。男はそのままサンダルをひっかけて外に出た。
離婚してから独りで暮らしはじめた街。まだそれほど馴染めていない景色。気の持ちようによっては新鮮な刺激に満ちた平日の午前中ではあったが、穏やかな気候にもかかわらず街に人影はまばらで、たまにすれ違うのは散歩中の老人ばかりだった。
男は何度か行ったことのある昔ながらの煙草屋に向かった。しかしいつも年配の女性が怪訝そうに顔を覗かせていた窓はシャッターが降りていた。隣にあった小さな喫煙スペースも灰皿や自動販売機がすべて撤去され、「禁煙」と書かれた貼り紙が必要以上に何枚も無造作に貼られていた。どうやらいつの間にか店をたたんでしまっていたようだ。
「きっと近所から文句が出たんだな。今どき煙草を吸うなんてまともな人間じゃないということだ」
男はブツクサと独り言を言うと、仕方なく少し先のコンビニまで歩くことにした。
その道すがら、こじんまりとしたショッピングモールの一角に古びた木造の小さな平屋が佇んでいるのが目に入った。
「こんなところにこんな店があったかな。しかしとてもではないが新しくオープンした店とも思えない建物だ。それこそ100年近く続く老舗という方がしっくりくる。まあ近頃はレトロを愉しむ若者も少なくはないのだろうが」
男の足は思わず店に引き寄せられた。近づいてみると看板には「なんでも買い取ります。リサイクルショップ・輪廻」と書かれていた。入り口の横のショーケースには、古い置き時計や懐中時計、万年筆などが陳列されていた。
「リサイクルショップというか、どっちかと言えばこれはもはや骨董品屋だな」
男は店内を覗いて見たい一心に駆られ、気がつけば建て付けの悪い磨りガラスの扉をこじ開け、中に足を踏み入れていた。
小高いビルに挟まれ日差しの届かない店内は薄暗く、一人の客の姿もなくひっそり静まりかえっていた。入り口のショーケース同様、店内には古びた品々が所狭しと並んでいた。唯一動きのある物といえば奥に見える柱時計で、くすんだ黄金色の大きな振り子をぎこちなく揺らしていた。静かな店内を満たしていたものといえば、その柱時計のカチカチと時を刻む音ぐらいだった。
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