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「いらっしゃい」
突然の声に男は度肝を抜かれた。振り向くと部屋の隅に机と椅子があり、一人の老人が座っていた。最初からずっとそこに居たのかもしれないが、男はまったく人の気配を感じていなかった。薄暗い部屋に勝るとも劣らない影の薄さ。それは男がひたすら目を凝らして見つめなければ、存在を確認できないほどだった。
老人の髪は艶やかな鼠色で、両耳が隠れるほど伸びていたが、襟足は綺麗に整えられていた。頬はしな垂れ、さながら小型のセントバーナードといった顔つきだった。鼻にかけた丸眼鏡はなぜか取ってつけたような違和感があり、その奥の小さな細い目は瞑っているのか、もともと細いのか分からなかった。
「そんな死神でも見たかのような青ざめた顔で人を見るもんじゃありませんよ。へっへっへ」
老人はそう言いながらやけに愉快そうに笑った。笑った口にのぞかせた歯は所々抜け落ちていた。それでもその声は、まるでサラウンドスピーカーを通しているかのように臨場感のある、よく響く声だった。
「今日は何を売りにいらしたんでしょうか?」
「いや、別に…。ただふらっと…」
「久しぶりのお客さんだ。これもなにかの縁です。きっと何か売った方がいいものがあると思いますよ?あ、でもそのパーカーでしたら、あいにく大した対価はお支払いはできかねますがね。へっへっへ」
「こ、これは売る気などない」
男ははだけていた前のジッパーを慌てて首元まで引き上げた。
「それは賢明でございます。では何か他にございますでしょう」
「だから、私は何かを売りにきたわけではなく、たまたま通りかかっただけだ」
「ほぉ『たまたま通りかかった』のですか。そしてこの店に入られた。いやぁしかし、たまたま通りかかっても、この店に入られる方はなかなかいらっしゃらない。やはりこれは縁というほかございませんな。では何をお売りになりますか?」
男は「しつこいヤツだ」と思いつつも、根っからのお人好しということもあり、そう何度も言われると次第に何かを売らなければならないと心の片隅で思い始めていたのだった。
「なかなか商売上手だな。そこまで言われると、私も何か売りたくなってくるではないか。しかし私はもうこれまでの人生ですべて身ぐるみを剥がされたも同然だ。だから売れるものなどほとんどないが、それでもあるとすれば…そうだなぁ…『過去』かな」
男は気の利いた冗談のつもりで不意にそう口にした。ところがその途端、老人は尋常ではないほど目を大きく見開き、白目に浮き出た血管を赤々と充血させて言った。
「過去ですかっ!」
そしてすくっと立ち上がり、見た目とは到底かけ離れた軽快さで男の方へ近づいてきた。男は思わず二、三歩後退りした。気がつけば腕から首筋にかけて鳥肌が立っていた。
「これはこれは素晴らしい!そうとなれば、まぁまぁ、こちらへどうぞどうぞ!」
老人はどこからともなく椅子を一つ差し出し、そこに座るように手振りで男を促した。
「やはり縁ですな。いやいや素晴らしい。お茶でも入れますから、まぁゆっくり話を聞かせてください。あなたの『過去』を。へっへっへ」
老人は嬉しさのあまり飛び跳ねるようにして奥の部屋に入ろうとしたが、扉を開けてピタッと止まったかと思うと、男に振り向いて言った。
「今お茶を持ってきますからねぇ。決して帰らないでくださいよぉ?へっへっへ」
老人の気味の悪さにすっかり怖気づいてしまった男は、言われるがまま座って待つほかになかった。
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