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男は老人を待つ間「私はいったいここで何をしてるんだ」と悔やみ始めていたが、裏腹に、内心「どこからどう話そうか」と考えてしまう素直な性分は抑えられなかった。
まもなく老人はお茶を持って現れた。机の上に置くなり急いで椅子に座って言った。
「それではどうぞ?慌てずに、最初からゆっくり話してくださいねぇ。へっへっへ」
男は躊躇いながらも、お茶で口を潤すと、仕方なく話し始めた。最初は「馬鹿馬鹿しい。なんで見ず知らずの薄気味悪い老人に、私の個人的なことを細々と話さなければならないのか」と懐疑的ではあったが、話を進めるうちに、かえってその柵のなさが言葉を滑らかにしていった。そもそもこれまで自分の人生を振り返って詳らかに人に話すこともなかったし、あったとしても、離婚調停で弁護士にさまざまな事実を並び立てたくらいだった。だとしてもそこには生い立ちなどは含まれていない。あらためて自身の記憶を辿ると、一つの記憶がまた別の記憶を呼び起こし、芋づる式に連鎖しながら、気がつけば滔々と人生を語っていた。男はすっかり悦に入っているようだった。
一方、老人はこの上なく聞き上手で、「ほぉほぉ」「それはそれは」など、要所要所で相槌を打ちながら男の話を見事に引き立てていた。
男は大方話し尽くすと、後半の惨めな自分を再認識して意気消沈した。逆に老人はいかにも満足そうに、満面の笑みを浮かべて言った。
「最後を除けばそんなに悪くない人生でしたなぁ。いやいや本当に素晴らしい。へっへっへ」
「しかし悪くない人生とはあまりいいものでもない。思えば何も自分の意思でチャレンジもしたこともなかった。何も本気で取り組んだこともなかった。心を燃やして何かに追い求めたこともなかった。本気で誰かを好きになったこともなかった。ただ成り行きのまま生きてきた。人が敷いたレールの上を歩いてきただけだ。何かをしているようで何もしていなかった。そして最後にはすべてが崩壊した。オセロのように、並べてきた白が最後の一手ですべて黒に反転したんだ…」
「私は好きですねぇ、そういう結末。それこそ人生というものでございましょう。へっへっへ」
「人ごとだからそう言えるんだ」
「まあまあ、そういきり立たずに」
老人はそう宥めると立ち上がり、眼鏡の上から男を覗き込むようにして言った。
「では、買いましょう。あなたの過去を。対価を支払う価値が十分にございますからねぇ。へっへっへ」
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