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小箱の中身は小切手だった。老人は一枚取り出すと素早く数字を書き込んだ。そして不躾に男の方へ差し出した。男は受け取った小切手を確認するなり、腰を抜かして椅子に座り込んだ。
「二千万円!これは本当なのか?」
男は驚きと嬉しさのあまり手を震わせていた。老人は澄ました顔で言った。
「はい、本当でございます。僅かではございますが、老後の貯蓄の心配などはしなくてもいいくらいではないでしょうかぁ?へっへっへ」
「僅かどころではない。本当に本当なんだな?」
男は念を押した。
「はい、本当に本当でございますよぉ?」
「いやぁこれは助かる。失業手当だけで細々と凌いでいたが、これなら少しは楽ができる」
男は興奮ぎみに立ち上がると、スウェットパンツのポケットに小切手を押し込んで言った。
「間違いないんだな?これはもう私のものなんだな?」
男はさらに念を押した。
「はい、その通りでございますよぉ。へっへっへ」
「そうかそうか。最初はどうなることかと思ったが、ここに立ち寄って正解だった。たしかにこれは縁だな。縁としか言いようがない」
予想以上に喜びをあらわにする男に、老人もさすがに苦笑いしていた。
「いやぁ本当によかった。感謝するよ。今まで大変な人生だったが、黒になったオセロが再び白にひっくり返ったようなものだ。もう離婚だとか子供だとかは一切忘れて、これからは楽しく生きよう!」
そう言った瞬間、男も老人もびっくりしてお互い顔を見合わせた。男はボソッと言った。
「あれ?過去の記憶が…ある…な…。あるある」
老人は大慌てで小箱からサングラスを取り出し、記憶の伝送ログを確認した。そしてただでさえ血色の悪い顔をさらに青ざめさせて言った。
「記憶が…取れて…ない…。ないない」
男は少し考えていたが、ふと思いあたる節が浮かんだ。
「実は自分の過去を話して聞かせているうちに、自分でも話しながら考えが変わったんだ。たしかにいろいろ辛いことはあった。しかしそれでも、それはそれで私の人生だ。私がこれまで生きてきた証だ。この先また何がどう転ぶか分からない。もしかしたら娘たちが私を許して受け入れてくれるかもしれない。そう思えば満更でもない。私の人生に悔いはない。なんと麗しき人生。そう思ったんだ」
「な、な、なんですと…?それを先に言っていただかなければ…。いい思い出だけでは記憶が取れるはずもございません…」
老人は愕然として机にひれ伏した。
「では…、その小切手は返していただき…」
老人はそう言いながら顔を上げたが、そこにはもう男の姿はなかった。男は一瞬の隙をついて足早に店を出ていったのだ。もちろん老人に男を追いかけて捕まえるほどの脚力はなかったし、あれほど念を押され、その金は男のものだと答えた手前、今さら返せというのも憚られた。
「しまったぁ…。先にデータを確認してから支払うべきであった…」
(了)
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