言操りマリオネット

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 明け方の空はどんよりとグレーのカーテンが閉められている。二月の早朝の空は明けているのかいないのか、少なくとも来栖理人(くるすりひと)の目には、ただただ灰色の緞帳が広がっているだけだった。  新宿二丁目の男性限定ホストクラブ『UNDER』で働きはじめて、もう三年になる。理人は若さと中性的な美貌であっという間にナンバーワンに駆けあがり、二三歳という若さで都内の高級マンションを手に入れ、なにひとつの不自由もない生活を送っている。端から見ればの話だが。 「理人さん、これを」  マンションの手前で理人に小箱を差し出してきたのは、理人の担当黒服である藤堂匡輔(とうどうきょうすけ)だ。黒い箱に鮮やかなブルーのリボン。その中身がなにであるか、理人にはわかりすぎるほどわかっていた。これでもう三年目だ。 「……あのさぁ? うちの店は担当ホストにチョコレート渡す決まりでもあるわけ?」  そう。今日はバレンタインデー。日付が変わると同時に、バレンタインだからと理人の客はチョコレートの代わりに、店で一番高いボトルを次々と注文してくれた。その最後の最後に、いつも藤堂から渡されるチョコレート。 「ありませんよ。知っているでしょう?」 「……毎年くれるけど、それこそ知ってんじゃん? 俺が……恋愛出来ないことも、人に触れないことも」  恋愛恐怖症で接触恐怖症。このふたつの病は、理人が知らず知らずのうちにトラウマとして抱え込んでしまった重たい病だ。  理人は今まで自分から誰かを好きになったことがない。恋をする前に誰かに恋をされ、告白されてしまう。最初は丁寧に断っていたのだが、そのうち断ることに罪悪感を覚えだし、付き合ううちに好きになるかもしれないと、好きでもない相手と付き合い、好きでもない相手と身体を重ねた。  若いうちにはよくある話ではあるが、そんなことを続けていくうちに、理人は人を好きになることの意味がわからなくなっていったのだ。好きとは? 恋とは? そんな問いがいつも頭の中をぐるぐるして、嫌いじゃなければ好きなのかと、身体を繋げることで生まれる情を『恋』と名付けてみたりもした。  しかし、やはりそれはただの情に過ぎず、理人の中に恋という名の衝動が生まれることは、ただの一度もなかった。結果として理人は、自分は恋愛体質ではないと結論付け、自分に群がる男女を遠ざけていくうちに、恋愛も人と触れあうことも出来なくなってしまった。 「もちろん知っていますよ。でも、俺はただチョコレートを渡しているだけで、付き合いたいとも、寝たいとも言ってません」  あくまでもチョコレートを渡しているだけ。告白しているわけではない。藤堂はそう言って静かに息を吐いた。  誰もが魅了される理人に、藤堂もまた魅了されている。明るいピンクがかった金の髪は桜を連想させ、透き通るように白い肌はなまめかしく、大きな瞳は小動物のように愛らしい。中性的でありながら言動は幼い少年のままで、艶めかしいくせにあどけない、その両極端な性質はアンバランスで危うい印象を与える。  そんな理人が、恋愛も出来ない、人に触ることも触られることも出来ないという『秘密』が、より一層に藤堂の胸を掻き立てる。みっつ年下の生意気な青年風情の少年に、藤堂はいじらしく三年もチョコレートを贈るほどに心奪われているのだった。 「じゃあ、なんの意味があんの?」  いつも理人に献身的に尽くしてくれる藤堂は、贔屓目抜きにしても黒服にしておくのが惜しいくらいの男前だと、理人は思っている。物静かで穏やかで、気配りも黒服の中ではナンバーワンだ。理人が客に絡まれるといつだって藤堂はタイミング良くテーブルを移動させてもくれる。理人の限界を見極めて、ここぞという時に手を差し伸べてくれる藤堂は、理人にとってなくてはならない存在になりつつある。他の人間とは明らかに違う『特別な感情』を、理人は藤堂に抱きはじめていた。 「意味は……理人さんが決めたらいい」 「……ずるいな」 「そうですか? 俺はもう三年もこうして待っているわけなんですけど」  一歩、藤堂が理人に近付く。二月の冷たい風に乗って、藤堂のシトラスムスクが理人の鼻をくすぐる。 「……まだ、怖いですか?」 「藤堂のことは怖くねぇけど……」 「触れても?」  ゆっくりと藤堂の手が伸びてきて、ハッと首をすくめる理人の頬にかすかに指先が触れる。 「嫌ですか? 吐き気は?」 「……し、しないけどっ」  少しづつ藤堂の指が理人の頬に触れる面積が大きくなり、手のひらがすっぽりと頬を覆う頃には、理人の心臓はばくばくと恐怖からではない爆音を奏でだしていた。 「大丈夫ですか? 呼吸が乱れているようですけど」  ひとつひとつ確かめてくる藤堂に、理人は身動きがとれなくなっていく。細くやわらかな糸で少しづつ絞めあげられていくような、甘い誘惑。 「チョコレートは意味を持ちましたか?」  困ったようにそう尋ねてくる藤堂の手が、するりと理人の耳を撫でた瞬間に、箱の中のチョコレートが返事をするようにカタリと音をたてた。
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