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おそるおそる顧みると、そこには涎を垂らした禍神が佇んでいた。
大きな体躯が放つ威圧感に、自身が捕食対象であることを思い知らされる。
人間がこの百二十年もの間、突如出現した突然変異体から逃げ続けてこられたことは、本当に奇跡だ。こんなバケモノを倒せる人たちがいるという事実も、信じられない。
だけど――
「もう十分、喰っただろう? おれの血肉をやるから。それで、もう帰ってくれ!」
怯んでなどいられない。せめて凪逢だけは、守ってみせる。
「ほら」
腕を広げる。禍神によく見えるように。凪逢を隠すように。
「来い」
声に誘われたか。太い右前足が、無情にも振り下ろされる。
それはおれの横腹を殴り、体を吹き飛ばした。
「ぐっ……」
衝撃で息ができない。痛みに体が動かせない。意識が朦朧とする。
霞む視界で、なけなしの体力を使い、瞳を動かす。禍神の爪が、凪逢目掛けて振り下ろされる瞬間だった。
どうして、おれを喰わないのか。このままじゃ、凪逢まで奪われる。叫びたいのに、声も出なかった。
涙で、朧げな視界さえ塞がれる。おれは、大切なものを何一つ守れないのか。ただ、殺されるしかないのか。
何もできずに、終わるのか。
「泣いて、何になる」
ふいに聞こえてきた声は、知らない男のもの。風のように駆け抜け、禍神に飛び込んでいく。
そうして流れるような手捌きで、あっというまに禍神を倒してしまった。
そこからはもう覚えていない。おれの意識が限界を迎えたようだ。
最後に見たのは、男の背中。その服に描かれた、カラスだった。
◆◆◆
それが夢だということは、すぐにわかった。
家族で囲む食卓。いつもの席。皆の笑顔。
ぐるりと見渡せば、微笑みかけてくれる母さんに沙雪、沙介、沙登史。そして、父さんの姿。
それは、とても温かくて心地よく、いつまでも浸っていたい幸福感に満ちていた。
けれど、ともに去来したのは微かな欠乏感。
これは、おれの求めているものではない――本能がそう告げていた。
おれは、頭を下げる。
「ごめん。おれはまだ、行けない」
俯き謝るおれに、皆が首を横に振る。彼らの穏やかな表情に、唇を噛み締めた。
「守れなくて、ごめ――」
謝罪を遮ったのは、妹弟たち。三人がおれの手をそれぞれ持ち、微笑んでくれている。
「っ……ありがとう……おれは、相模沙希人として、皆の家族でいられて、幸せだった」
沙登史の姿が、光のように儚く消える。
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