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儚き日常
「あ……」
瞬く間の出来事は、無音だった。
一呼吸遅れて、時が動き始める。
無意識の状況確認。
日常の一風景が、おれの手を止めた。
いつものように洗い物をしていただけ。特段に力を入れていたわけでもない。
「気が付かなかったけれど、どこかにヒビでも入っていたのかな……」
丸い皿が、両手の中で二つに分離していた。つまりは、割れたのである。
おれはぼそっと呟きながら、ひりとした痛みに視線を下げた。まるで袈裟斬りにされたかのような傷が、視界に入る。鮮血が、ぷくぷくと小さな丸をいくつも生み出していた。右腕の、手首から下。浅いが、長い。
原因は一目瞭然。左手側に残された断面が、上下運動の勢いのまま、殺す暇もなく接触したからだ。
「えっと……」
ふうと肩を下げる。ひとまず手についた泡を洗い流そう。皿だったものは一度横へ置いておく。あいつらが触らないように、気を付けておかないと。
「こんなところを見られたら、騒ぎ立てるだろうな」
苦笑しながらぼやくと、ガチャリと扉が開いた。流水に曝す手をそのままに、そちらへ視線を巡らせる。少し汗ばんだ、人のいい笑顔がそこにあった。
「沙希人、洗い物ありが――って、ううう腕えーっ!」
腕の様子に気付いたと同時。ぎょっとした顔で叫ぶ、同じ年の少年。
ああ、そうか。誰よりもこいつが騒ぐかと頭の隅で捉える。
おれは濡れた手を拭き、驚きに揺れる栗色頭を見た。
彼の足元には、袋いっぱいの生活必需品が置かれている。
「買い物ありがとう。お疲れ様。重かっただろう?」
「いや、そんなことはなかったよ。――って、だから腕!」
「ああ、うん。ごめん。皿を割ってしまった」
「ああ、うん。じゃないよ! どうして笑っているのかなあ、きみは。とにかく、そこでじっとしていて。すぐに、救急箱を持ってくるから」
「悪いな。頼むよ」
返事を聞いていたかどうか怪しいスピードでバタバタと駆けていく、栗色の柔らかな毛。彼の背が見えなくなってから、改めて縦に割れた皿を見た。
まるで、一刀両断にされたかのようだ。
「やけに、綺麗な断面だな」
美しささえ感じさせるそれに魅了され、誘われるようにそっと指を伸ばす。触れるかどうかというところで、美術品の元使用者が戻ってきた。
「こら、沙希人。不用意に触らないの。指先もくれてやるつもり?」
「そうだな。ごめん」
「もう……水では洗ってあるみたいだね。じゃあほら、こっちに来て」
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